2009年6月8日月曜日

(4)佐々(さざ)駅



<旧佐々駅跡付近>
この狭いところに駅があったと指し示す吉永さん。当時車掌として乗務しておられ、後は専務車掌となられた。ここは、現在の駅よりは上手、今の佐々踏切のすぐ下手になる。

今にして思えば、炭鉱全盛期の頃、佐々駅は大変な活況を見せていた。鉄道以外では小店が少しあるだけで回りは田んぼばかりだった。

そこに黒い煙を吐いて力強く走る蒸気機関車は珍しくて、文明の香りがしていたことでしょう。炭鉱は次々に開発され、人々は集まってくる、若者の職場は農業だけではなくなった。早岐から伊万里までの間では、最も地の利が良かった佐々は後に機関区が出来たり、その他にも鉄道に関してはすべての事業所が勢ぞろいし発展している。

世の中は、大東亜戦争に向かって突き進み、富国強兵の大号令のもと、国内唯一のエネルギー源石炭の増産は急務であった。

しかも、北松炭田には製鉄に使う強粘結炭を産出する炭鉱もあった。国鉄となった後も軽便鉄道が走っていた区間を普通鉄道にして、輸送力を上げることが急がれた。そこで、鉄道兵が来て作業したり、町民が勤労奉仕に狩り出されて、構内の整備に協力するなど、官、軍、民の力を結集して軽便鉄道から松浦線へと整備された。

その中でも鉄道兵は、千葉の鉄道連隊が千人規模で来て、佐々町内の東光寺をはじめとして分宿し、突貫工事で一夜にして線路が引かれたところがあったと言い伝えられている。また国鉄線路と軽便線路が重なるところでは、レールが3本引かれた所もあったそうだが、大小の機関車が同じところを走ったりしたのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿