2009年6月30日火曜日

世知原(せちばる)駅


<世知原駅跡>

世知原線終点の世知原駅跡はさながら鉄道記念公園となっている。

このブログの始めの「生い立ち」に示した佐世保軽便鉄道の創始者中倉万次郎翁の巨大な顕彰碑や松浦線で最も活躍していた機関車C11の動輪が線路の上に置かれている。




<歴史民族資料館>

駅跡のすぐ近くに歴史民族資料館という仰々しい名前の資料館がある。入場料は無料で正面玄関は閉じられているが、右横に回れば入り口は昼間だけ開いていて勝手に入れるようななっている。

この建物は石造りの立派なもので、長崎県の有形文化財に指定されている。明治年間に操業した松浦炭鉱の事務所をそのまま資料館にしたものである。当時のことを知る人によるとここに出入りする人は炭鉱のお偉方ばかりだったとのことです。したがって、炭鉱関係の資料が多いが、世知原から佐々までの軽便鉄道は松浦炭鉱の石炭積み出し用の鉄道だったのだから今となっては軽便の資料を公開しているところはここぐらいしかない。


資料館内部にある松浦線当時の駅長(左)、車掌(右)の制服と駅名札



駅跡から約1キロ離れた山手に石炭を貨車に積むためのホッパー(ポケットともいう)が完全な形で残っているが、今は田んぼで使う資材が置かれている。この辺りまで引込み線があったのだろうか、後のトラック輸送の頃のものだろうか。


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2009年6月28日日曜日

祝橋(いわいばし)駅


<祝橋駅跡>


写真の駅舎跡は国鉄世知原線の時のものである。駅舎とホームは当時のままのものであるが、かなり荒れている。

地元の民間企業の事務所兼倉庫として使われている。ホーム跡には自然木のかなり大きいのが立っているのは、廃線になって40年ばかりになる時間の経過を感じさせる。





<遊歩道・サイクリングロード>


世知原線跡はほぼ全線8キロが遊歩道・サイクリングロードとして整備されている。

佐世保市に合併されるまでは、吉井町と世知原町の2町にまたがっており、整備の仕方に差があり写真のように立派なところもあり、道沿いの大きなプランターには季節の花が彩を添えているところもある。


2009年6月26日金曜日

吉井駅






写真
上<現在の吉井駅>

下<軽便鉄道の線路跡の踏切>

世知原線は国鉄時代、吉井駅から支線として分岐していた。したがって客車、貨車ともに引込み線があり、駅構内は無人駅ではあるが、現在も広々として直線部分も長い。

国鉄世知原線の線路跡は、遊歩道・サイクリングロードとなっている。
しかし、軽便鉄道の線路跡は吉井踏切り付近の道路としてわずかに残っている。当時の駅は現在の駅とほぼ同じところと言うことだから、遊歩道ー踏切りー保育所ー駅というところを結べば線路跡の痕跡がうかがえる。

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2009年6月24日水曜日

世知原(せちばる)線











<中倉万次郎翁胸像>



世知原では明治初期から石炭の採掘が行われていた。


そこに大手の飯野松浦炭鉱が入り、企業化が進んだ。その石炭を運び出すために鉄道が佐々まで炭鉱の手で引かれた。これも軽便鉄道ではあるが、機関車は佐世保軽便鉄道のものより少し大きかったらしい。世知原は標高が高く(約300メートル)馬力が必要だったためだろう。

やがて、佐世保鉄道に買収されて客車も1両だけ連結して走った。佐世保鉄道の初代社長(国鉄に買収されたため2代目はいない)中倉万次郎翁が世知原出身ということも関係あるのだろう。

翁を顕彰した写真の胸像は現在、たびら平戸口駅近くの平戸瀬戸を見下ろす公園に昭和37年に再建されたものである。銘板の説明書きによると、当時中央政界の大物で新幹線の岐阜羽島駅を強引に作ったことで有名な大野伴朴氏が発起人代表となっている。

この万次郎翁の像は筆者が高校生の頃、汽車の待ち時間によく行っていた公園で、当時は太平洋戦争の際、銅像など金属類は供出しており、ここもその例に漏れず石かコンクリートの低い台座だけしかなかった。それに比べて50年ぶりに訪れた公園の銅像は見上げるように高い立派な大理石の上にのせられていた。しかし、この公園は最近では訪れる人も少なく周りの木や草は生い茂り翁は何かさびしそうに見えた。

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2009年6月22日月曜日

臼の浦(うすのうら)駅



写真上<臼の浦駅跡>  下<貯炭場跡>


臼の浦線終点の臼の浦駅は現在地区の港町公民館となっている。以前は松浦線当時の駅舎がそのまま公民館として使われていたが、老朽化のため建て替えられた。

駅のホームへ上がっていく階段(写真のもの)は昔のままである。またホームにあった駅名札は臼の浦線が廃止された昭和46年にこの階段下に移設された。

線路跡には住宅が建ち面影をうかがうことは出来ない。

しかし、港へ向かう引込み線の跡はかなり残っている。

船積みしていた貯炭場跡は現在、港湾会社の資材置き場になっている。


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2009年6月20日土曜日

大悲観(だいひかん)駅








写真上<大悲観駅跡は公園になっている>







左<大悲観の大文字>







現在の大悲観公園の入り口辺りが大悲観駅があった付近である。黒石駅とこの駅は佐世保鉄道の記録によると、停留所とされ、当時黒ダイヤと呼ばれた石炭を臼の浦港へ運ぶのが最大の目的で、乗客は石炭貨車15両連結の後ろに1両だけあった客車に乗っていた。満員の場合は貨車の石炭の上に乗って、ただ同様の料金だった。

大悲観の大文字は、1830年に平戸藩主観中公によって砂岩に刻まれたものである。
ひびが入った部分もあるが立派なものである。この付近には佐世保市の花鹿の子百合(カノコユリ)の群落があり7月には見事な花が見られる。

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2009年6月18日木曜日

黒石駅



写真上から

1 <黒石駅跡と場所を示す吉永さん>

2 <佐々川鉄橋跡(黒石側)>


3 <鉄橋跡の金具(佐々側)>


県道に架かる見返り橋の少し上流に鉄橋の跡がはっきり残っている。ただ鉄橋跡と思われるものが2箇所ある。

佐々側の石垣は明らかに2本の橋のためのものである。何人もの人に鉄橋の事を聞いたが、それぞれの人で微妙にニュアンスが違う。

ここには、古くから渡し舟が人を渡していたところで、見返り橋は線路よりずっと後になってから出来た。

軽便鉄道の鉄橋と後の国鉄の鉄橋とが交錯した面もある。木造の橋があったという人もいる。使われなくなった軽便鉄道の鉄橋を歩道用に使っていたとは考えられないだろうか。渡し賃を節約して、線路を歩いて渡っていたという話もよく聞くのだから。

黒石駅辺りの堀切は当時は勾配が急で機関車が上りきらなくて、鉄橋を越えて四ツ井樋駅ふきんまでバックして助走を付けて上ったりしたということだから、現在はかなり掘り下げられたものと思われる。


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2009年6月16日火曜日

臼の浦線



<臼の浦へ堀切りの線路跡>


臼の浦線の興亡は炭鉱・石炭の興亡と同じものがある。

佐世保港は軍港だから、エネルギー源の石炭は柚木炭鉱から相浦港へ運ばれ船積みされていた。

相浦港は狭く貯炭場となるスペースもあまりなかった。ここに代わって臼の浦港が石炭積み出し港となった。先ず始めは柚木から軽便鉄道はまっすぐに臼の浦港へ入り広い貯炭場へ山積みし全国へ船出した。

その後、北松炭田の石炭が優秀なことが認識され、北松各地の石炭は佐々駅からまっすぐ臼の浦港へ運ばれる国鉄臼の浦線は付け替えが行われた。

この線路跡は今もはっきりと佐々駅から佐々川鉄橋まで続いている。


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2009年6月14日日曜日

(7)神田(こうだ)駅


写真上から
1<神田駅跡付近>
2<踏切跡付近>
3<軽便鉄道の橋脚跡>
4<ホッパー跡を改造した民家>

この辺りの線路は軽便のときは松浦炭鉱の降炭専用鉄道を買収して 客車も走らしたが、後に国鉄が普通鉄道を敷設したとき経路が大幅に変わった。

川崎商店(たばこ屋)前から山手へ約200メートル山手へ行ったところに神田駅はあった。なぜか神田炭鉱の火薬貯蔵庫の一部と言われるコンクリート塊があるところの付近である。
この駅には駅舎はなくホームがあっただけである。したがって、出征兵士の見送りは駅ではなく、川崎商店付近の踏み切りに整列して見送ったそうです。



ここから200メートル下手(佐々より)に軽便鉄道の遺構として赤レンガの橋脚が藪の中にわずかに残っている。


現在の神田駅近くに江里(えり)炭鉱が国鉄松浦線の貨車に石炭を積み込んでいたホッパー跡を民家として再利用されているのは立派だ。


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2009年6月12日金曜日

(6)猪立山(いたちやま)駅


<猪立山駅跡>

鼬山と書かずに猪立山としたのはなぜだろう。佐々川を挟んで向かい側の山は狸山というのだから。

この駅は、当初は信号所(単線運転のすれ違い場所)として作られた。その後、正式の駅となり、駅長もいたこともあるが、また信号所に格下げされた経緯がある。佐々村に7駅があったことを自慢する人にとっては、是が非でも駅であって欲しいものです。

軽便の機関車に水の補給もこの駅では行っていた。

写真の赤っぽい2階家の辺りに駅舎があった。今はなだらかな勾配になっているが、当時はもっと坂がきつくて出力の小さな軽便の機関車はかなりスピードを落として走っていたので、学生などはこの付近では飛び乗ったり、飛び降りたりしていたそうです。

2009年6月10日水曜日

(5)野寄(のより)駅


<野寄駅跡>

現在の野寄踏切の少し上手、パーマ屋さんがあるところ辺りだった。平戸街道では佐々川を飛び石で渡っていたところだが、現在はもちろん橋が架かっている。昔の佐々小学校から一番近い駅で、出征兵士を見送りに学童が来ていたそうです。

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2009年6月8日月曜日

(4)佐々(さざ)駅



<旧佐々駅跡付近>
この狭いところに駅があったと指し示す吉永さん。当時車掌として乗務しておられ、後は専務車掌となられた。ここは、現在の駅よりは上手、今の佐々踏切のすぐ下手になる。

今にして思えば、炭鉱全盛期の頃、佐々駅は大変な活況を見せていた。鉄道以外では小店が少しあるだけで回りは田んぼばかりだった。

そこに黒い煙を吐いて力強く走る蒸気機関車は珍しくて、文明の香りがしていたことでしょう。炭鉱は次々に開発され、人々は集まってくる、若者の職場は農業だけではなくなった。早岐から伊万里までの間では、最も地の利が良かった佐々は後に機関区が出来たり、その他にも鉄道に関してはすべての事業所が勢ぞろいし発展している。

世の中は、大東亜戦争に向かって突き進み、富国強兵の大号令のもと、国内唯一のエネルギー源石炭の増産は急務であった。

しかも、北松炭田には製鉄に使う強粘結炭を産出する炭鉱もあった。国鉄となった後も軽便鉄道が走っていた区間を普通鉄道にして、輸送力を上げることが急がれた。そこで、鉄道兵が来て作業したり、町民が勤労奉仕に狩り出されて、構内の整備に協力するなど、官、軍、民の力を結集して軽便鉄道から松浦線へと整備された。

その中でも鉄道兵は、千葉の鉄道連隊が千人規模で来て、佐々町内の東光寺をはじめとして分宿し、突貫工事で一夜にして線路が引かれたところがあったと言い伝えられている。また国鉄線路と軽便線路が重なるところでは、レールが3本引かれた所もあったそうだが、大小の機関車が同じところを走ったりしたのだろうか。

2009年6月6日土曜日

(3)四ツ井樋(よついび)駅




写真(上)
<四ツ井樋駅跡>

昭和6年6月に開通したときの駅名は「四ツ指駅」となっていた。とんでもない勘違いである、まもなく改名して四ツ井樋駅となる。

写真の四ツ井樋踏切付近にあった。すぐ近くに佐々川があり、その鉄橋を渡るためこの駅のホームはカーブしていた。開通から半年後には佐々行きの分岐駅となった。そのため機関車の方向変換をしなければならず駅構内は広めであった。佐々町の口石や木場からの通学生はこの駅から乗下車していた。

写真(中)<四ツ井樋水門>

昔は水門が4つあったらしいが現在は5つある。

写真(下)<大新田排水機場>

江戸時代に干拓して作られた新田で、松浦藩内で最も広い水田地帯である。最近は郊外型店舗や高速道路も建設されて狭まりつつある。水門は満潮のとき海水が田んぼに入らないように開閉を行っている。それでも大雨が降れば、田や道路が冠水するので大型ポンプでこの雨水を堤防を越えて佐々川に排水するように作られた。写真左側は佐々町が以前設置したもので、右側は現在建設中の高速道路に伴うもので国土交通省が作った。

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2009年6月4日木曜日

(2)初代小浦(こうら)駅



<初代小浦駅跡>

現在の小浦駅よりもかなり佐世保よりで、小浦のなかでも古釜(ふるがま)と言ったほうが分かりやすい。

左の建物は佐世保高等技術専門校(旧訓練校)である。新道(左)と旧道(右)に挟まれた三角の雑草が生えているところに駅舎があった。土砂止めのコンクリート壁のところに佐世保方面のホームがあり、向い側に佐々方面のホームがあった。

近所のおばあさんの話では、口石小学校の子供たちが学校から動員されて出征兵士を見送りに来ていたそうです。一緒にこの付近を回った畳屋の松本さんはこの駅で父親の出征を見送ったそうですが、帰ってこられなかったとのことです。


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2009年6月2日火曜日

(1)初代真申(まさる)駅



<初代真申駅跡>

実盛谷トンネルを出ると線路跡は掘り切りとなり、木漏れ日の遊歩道という感じのなだらかな山道が続く。やがて国道204号線へ出る。ここは本山トンネルを掘り国道を通したとき線路跡をも分断している。佐世保市棚方町の三恵工業前の山道にはその面影が残っている。この後、小さな川を渡り掘り切りを抜けて佐々町へ入って行く。

初代真申駅は今の水の浦バス停近くの真申踏み切り付近である。線路と道路に挟まれた三角の空き地辺りに駅舎があった。現在の二代目真申駅は佐世保市側に作られた。

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