2009年8月2日日曜日

はじめに

昭和63年(1988年)4月1日、松浦鉄道西九州線として発足しました。

佐賀県西松浦郡有田町から伊万里、平戸口、佐世保へと北松浦半島をほぼ一周していて、営業キロは93.8(支線が3路線あったのでそれを入れると100キロ以上)もあり、東海道本線では東京ー真鶴、中央本線では東京ー初狩(山梨県大月市)間に相当します。

石炭が重宝されていた頃は沿線は人口も多くて賑やかなものでした。しかし、石炭は石油に取って代わられ、文字通り火が消えたようにさびしい過疎地となりました。それでも親方日の丸の松浦線は走り続け、全国でも名だたる赤字路線となりました。
国鉄分割民営化の中、廃止路線となりました。すると便利な自家用車や路線バスばかりを利用していた人たちも廃止反対の運動を始めました。その頃の拙句

   乗りもせず 残せと叫ぶ 赤字線

その甲斐あってか、地元の市町村の出資もあり第三セクターで運営されることになりました。社長はずっと佐世保市長です。

九州鉄道の伊万里線と佐世保軽便鉄道から始まり、国鉄松浦線となり分割民営化で九州旅客鉄道(JR九州)を経て現在の松浦鉄道(MR)となりました。そのこともあり現在の運行形態は大きく2系統になります。有田ー伊万里間と伊万里ー佐世保間です。有田から佐世保まで直行する列車はありません。
次回から、有田駅を出発して松浦鉄道沿線めぐりをはじめます。
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2009年7月30日木曜日

中倉万次郎の墓とその後の中倉家

<中倉万次郎の墓>


佐世保市世知原町北川内の中倉家の墓地に孫の一(はじめ)の建立による立派なものがあります。


(戒名) 仁量院殿万照浄境大居士


昭和11年2月6日死去享年八十有八


と刻まれています。


万次郎以降の家系は

  万次郎→豊太郎→一(はじめ)

       →一郎→(荒野)かな子→宏文 

かな子さんは荒野家に嫁いだけど、その長男は養子縁組をして中倉姓となり本人も中倉家を継承するそうです。

万次郎さんは明治元年に20歳という年まわりで、松浦藩の若様付という役だったそうで、その後も松浦家に仕え、殿様(廃藩置県の後は殿様とは言わなかったかもしれないが)が世知原の中倉家に泊まったこともあったそうで、門構え、池付の庭園そして二間続きの座敷と現在は痛みがひどいけど、昔のままのたたずまいが往時を物語っています。

今は一郎(故人)の妻、純(じゅん)さんだけがこの家に住んでおられます。家系や墓所についても純さんに伺いました。最初に伺ったときは留守でしたが、庭に黄色のユリの花が咲いていたので写真に撮りました。

昔といってもそんなに大昔のことではなく昭和30年代、「キヒラドユリ」というコオニユリの変種のものが平戸島にだけ咲いていたそうで、その後植物の伝染病などにより全滅したと思われていました。それが数年前に3株だけ見つかり、北松農業高校でウイルスフリーの処理をして株を増やしたとの新聞報道が最近されていました。平戸藩ゆかりの旧家の庭にひっそりと伝染病にもかからずに咲き続けていた、というシナリオを思い描いたけど・・・オニユリの変種のツシマオウゴンオニユリということでした。 



上<中倉家の庭に咲くツシマオウゴンオニユリ>
下<キヒラドユリ(平戸黄色百合)>



佐世保軽便鉄道は今回を持って終了します。最後まで読んでいただきありがとうございました。


次回からは、その後国鉄松浦線となり、さらに第三セクターの松浦鉄道・西九州線となって現在走っています。これを紹介します。今後もよろしくお願いします。



2009年7月28日火曜日

昔の写真や資料4

(4)続々 井手先生 読者からの手紙

月刊誌「虹」を読んだ読者から井手先生に寄せられた手紙を見せていただいたのでそれを紹介します。


日付は昭和61年だから20年以上前のことです。元機関手の岡崎勇さんからのものです。軽便鉄道が国鉄に買収されて解散記念誌が出されたときには機関助手として名簿に記載されていて、出身地は佐賀県の相知村(現唐津市)となっています。


昭和9年から国鉄になる11年までの3年間の機関助手としての勤務状況が述べられています。佐々ー上佐世保間を1日6往復(片道約1時間)していたそうです。そして、乗務時間が1日平均14時間39分だったので、1年間で5347時間になるとのことです。機関助手は別名「罐焚き(かまたき)」といわれていたのですから劣悪の環境での重労働だったことは、容易に想像できます。


そしてその間休んだことが1日もなかったというのですから驚きです。公務員の勤務時間を計算して年間2000時間になるので、その265%労働時間になると書かれています。この3年間の死闘を世間に発表してから死にたいと思って新聞社やNHKに連絡しても何の反応もありません。憤りを感じているが、いつの日かこの件が活字になると信じます。と結んであります。


国鉄になって勤務時間は改善され「親方日の丸」の時代になっていったのでしょう。


近所のスーパーマーケットの前を歩いていたら、朝9:00~夜10:00と書いてあり、あさ7時には何人も仕事をしています。(名ばかり?)店長の勤務時間はどうなっているだろうかと気になりました。




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2009年7月26日日曜日

昔の写真や資料3

(3)続 井手先生 社章について


井手先生が発表された「松浦線物語」の中に佐世保鉄道株式会社社章として丸の中にSとIを図案化したものがあります。
当時社員だった人から聞きながら図案化されたそうです。

軽便鉄道の機関車、客車、貨車などの古い写真を太田社長さんから見せてもらったり、井手先生から佐世保鉄道の国鉄買収記念アルバムを見せてもらう中で、客車と貨車の横っ腹に大きくはっきりとSとIの図案化されたマークを発見した。なぜか機関車十数枚の写真にはマークははいっていない。他社から中古品を買ったのでしょうか。

そのマークを忠実に再現したのが写真のものです。佐世保軽便鉄道を英語表記したら
  Sasebo
  Insta
nt
  Rail way
となるのかもしれない。この会社ができた頃は大正デモクラシーの時代、英語表記がおしゃれだったのでしょう。I と見るかレールの断面と見るか掛詞ならぬ掛け文字と見たいものです。戦時中の敵性語排斥の頃とはずいぶん違うようです。
しかし、職種については、機関手、制動手、庫内手など英語表記は全くありません。轉轍手(てんてつしゅ)とはポイントの切り替え係りだったそうです。





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2009年7月24日金曜日

昔の写真や資料2

(2)井手一郎 先生(診察室で)

相浦港のところで内科医院を開業しておられる井手先生に佐世保軽便鉄道についてお話をうかがうことができた。

先生は旧制佐世保中学のとき4年半の間、相浦駅から上佐世保駅まで軽便鉄道で通学されていました。

このときの模様や佐世保鉄道が国鉄に買収されていったいきさつなどを月刊誌「虹」1985年(昭和60年)10月号に「松浦線物語」として投稿され10ページばかりに渡って発表されました。

先生は大正13年生まれの今年85歳になられていますがお元気そのもので、定期的に高島へも診療に行かれたりしておられます。また郷土の歴史に精通されていて「相浦郷土史」の編集委員もされ、佐世保市の史談会のメンバーでもあります。

また、井手家の家系は4代前の先祖は「新吾太夫」といい、松浦藩の最後の武士といわれているとのことで、立派な鎧兜や刀剣なども保存されているものを見せていただきました。

さらに、井手家と初代佐世保鉄道の社長で創設者の中倉万次郎家とは親戚関係になるとのことです。

さらにまた、先生は旧制佐世保中学が佐世保市保立町から日宇町へ移転したため、相浦の自宅からの通学ができなくなって、最後の半年を寄宿したところが、万次郎翁終焉の地、佐世保市保立町14番地のとなりの川下家だったそうでこの軽便鉄道との奇縁を非常に懐かしく感じておられました。


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2009年7月22日水曜日

昔の写真や資料1

(1)太田社長さん



(有)太田電機の社長さんにはたくさんの写真や資料の提供を受けました。ご自身は旧制佐世保工業学校(機械科)の最後の学生で戦時中に軽便鉄道に乗って通学されていたので、そのときの様子など詳しく聞かせていただきました。


今までに掲載した写真には太田さんが保存されていたものを多数使用させていただきました。


最初、表紙のSLは世知原の資料館にあったものですが、それ以外は機関車、客車、貨車など多くの貴重な写真を見せていただきました。


国鉄松浦線が廃止になり、第3セクターとして松浦鉄道ができたとき、「旧松浦線を偲ぶ会」が行われたときの資料やそのときの模様を聞かせてもらい本文にも掲載させていただきました。


まだ掲載していないSLの写真を何枚か以下に掲載します。

















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2009年7月20日月曜日

こぼれ話10

(10)喜久屋について


<喜久屋の二代目夫婦>


臼の浦駅や袋が浦のことについて詳しく話を聞かせてもらった。


喜久屋は佐々町口石で商店をしていた湯浅菊蔵さんが臼の浦で創業を始めた。もともとは引き船屋だったそうだが、軽便鉄道が開通して臼の浦港まで石炭輸送ができるようになったら、鮮魚運搬船に変わった。昭和7年には奥さんが旅館と料理屋も始めた。


現在は三代目が釣り人相手の瀬渡し船とその客相手の旅館を経営している。


臼の浦港から石炭を積み出していた頃は活気があり大変賑やかだったそうだ。


現在は無人島になっている3島には住人がいたそうです。上小高島には養魚場と料理屋があり観光地となっていた。また下小高島とトコイ島(時計島ともいう)では石切り場があり生活していたそうだが今はそのときの住人はみんな九州本土に移り住んでいるそうです。




<現在の喜久屋>



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