2009年10月30日金曜日

佐々駅

<さざ駅>

佐々駅舎はログハウス風のしゃれた外観ですが、使い勝手は評判が悪くてトイレも使えないぐらいでしたが、今年になって2枚目写真の右側に見える鉄筋コンクリートの建物がトイレだけの施設として佐々町が建設しました。

3枚目写真の待合所とあるのは国鉄時代の遺跡みたいなもので現在は使われていません。もっとも雨宿りするならできるでしょうが。その後ろの2階建ては乗務員の休憩室でしたがこれも使っていないようです。いずれもホームにあるのですから良く目に付きます。


佐々川は 長崎県1の清流です。
6月1日にアユ釣りが解禁になります。定年を迎えた年には道具1式揃えて初日から行ってみたけど、小さいのを2匹釣っただけでやめてしまいました。
写真で釣っている人は「伊東名人」です。川に行けばいつも会うことが出来ます。最近はこの人以外の釣り人を見かけることはめったにありません。アユが極端に少なくなったためです。
それでも名人は少ないながらもやはり上手なものです。
佐々川では他にうなぎや藻屑かにもとれますが、早春のシロウオは名物です。私も20数年四手網でシロウオ漁をやっています。駅前ロータリーの観光案内板のシロウオ漁をやっている写真には私が写っていますが、後姿だけです。
 ここで1句

  シロウオや これも料理か 踊食い   読み人知らず

2009年10月28日水曜日

清峰高校前駅

<せいほうこうこうまえ駅>

昭和34年に「上佐々駅」として新設されました。

当時、この学校は長崎県立北松(ほくしょう)南高等学校といっていました。普通科と商業科があり夜間定時制も併設されていました。

平成15年に総合学科と改編し学校名も「清峰高校」と変えました。
すると平成17年の夏に野球部が甲子園の全国大会に初出場してイチローの母校愛工大名電を破るなど強豪校に勝って旋風を起こしました。地元の我々も信じられない出来事で小さな町は応援で盛り上がりました。

夏には3回、春2回甲子園出場を果たし、今年の春には全国制覇を成し遂げるという偉業をやってしまいました。


(清峰高校正門)

その後、グラウンドは数千万円をかけて県が整備してくれました。
また応援寄付金の残金で野球部の遠征のための大型バスの新車を買ってもらいました。3枚目写真がそれで、正門を入ってすぐ右に駐車しています。
駅名が変更になったのは平成19年ですから甲子園での活躍が引き金になったのは間違いないようです。








カメラを持ってこの鉄道に乗っていたら偶然野球部の選手が乗ってきたので写真に収めました。右からキャプテンの屋久(やひさ)三塁手、馬込投手(今村投手の控)、川本捕手。夏の県大会予選で準決勝で負けた後だったのでリラックスしていました。野球部の選手もほとんどこの気車やバスでの通学です。
そのとき私は春の選抜大会で清峰が破った京都の福知山成美高校の帽子をかぶっていたので打ち解けた話が出来ました。
甲子園に応援に行ったら相手チームの帽子と交換するのが楽しみになっています。


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2009年10月26日月曜日

神田駅

<こうだ駅>
昭和9年に軽便鉄道の停留場として営業を始めたけど、線路も駅舎も現在のものとは少し離れていました。
昭和19年になって改軌(762mm→1067mm)されるまで、10年ばかりの間はトロッコ列車が走っていたことになります。
ここも炭鉱時代は大勢の人が住んでいて、佐々町立神田小学校がありました。
廃校された跡に縫製工場が出来たけど、そこもやまり現在は住宅街になっています。


3枚目の写真は江里(えり)炭鉱のホッパーを改造して民家として使われています。


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2009年10月24日土曜日

吉井駅

<よしい駅>


昭和8年 に佐世保鉄道の駅として貨物および旅客用の軽便鉄道が営業を始めていました。


(2枚目写真は駅の線路脇に最近作られた詩碑)
ここから8キロばかり山手の世知原(せちばる)では明治から石炭採掘が行われていて、飯野海運の子会社が軽便の線路でトロッコを佐々の海岸まで運び船積みしていました。
それを佐世保鉄道が買収して旅客も扱うようになったそうです。
ところが、前回述べたように断層に阻まれて江迎・潜竜方面へ線路を延伸することが出来ずにいました。
第二次戦争末期になって、戦争遂行のためのエネルギー確保の大号令のもと鉄道工兵隊の動員もあり、金属不足の中で竹を骨組みにして
鉄道用の橋をかけたといわれています。この橋はこの駅の近くにあります。


(3枚目の写真は竹筋コンクリートの鉄橋?)

数年前、大学の研究チームが来て骨組みを調査したけど、竹が使われているかどうか分からないという結論を出して終わりました。
昭和28年小学校6年のとき、近くに住んでいて担任の先生からこの橋の骨組みは「竹」だと聞いたし、近所の人も話していましたから竹が使われていると私は思います。

(4枚目写真は直谷城跡)



この古い城跡も子供の頃の遊び場でした。

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2009年10月22日木曜日

潜竜ケ滝駅

<せんりゅうがたき駅>

この駅は 昭和14年に平戸口駅からここまで延伸されたときに「潜竜駅」として作られました。その駅舎は昭和37年の豪雨でボタ山が流れ出してきて押しつぶされ、跡形もなくなくなりその後200~300メートル佐世保寄りに新たに建てられました。
そのせいか今度は鉄筋コンクリートの奇妙な形をした駅となりました(2枚目写真)。松浦鉄道では鉄筋コンクリートはここだけでしょう。
潜竜駅が出来た後、佐世保から隣駅の吉井駅までは国鉄線路は来ていたのに終戦直前の昭和20年3月までは、この2キロばかりは歩いて汽車を乗り継ぐしか方法がありませんでした。というのもこの間には断層があり当時の技術と、資材不足では鉄橋を架けるのが困難だったようです。

(写真3枚目は潜竜ヶ滝)
松浦鉄道となり、すぐに 駅名を「潜竜ケ滝」と変えました。この滝は江戸時代からこの地方では有名だったようです。
水量も豊富で真夏でも涼しさを感じることが出来ます。
滝壷のそばに句碑があります(写真4枚目)。

瀧の威に 打たれしみじみ 合掌す

               森永 杉洞

ホトトギス句会が炭鉱時代にこの地にもあり、その時の人たちが、先生の句碑を建てたそうです。

(5枚目写真は潜竜炭鉱跡記念碑)


ここには潜竜炭鉱の坑口があったところです。
住友鉱山の主力炭鉱で北松一帯では最大手でした。したがって金回りも良かったらしく、街には活気がみなぎり、道路には所狭しと露店が店開きして繁盛していたし、当時パチンコは、はやってなかったけど、ビンゴゲーム(もちろん賭けていた)の番号をがなり立てるお姉さんの声が店の外まで響いていました。
後になって近くのタバコ屋さんで聞いた話では、この坑口付近のタバコ屋は九州1の売り上げをして、専売公社総裁表彰を何回ももらっていたそうです。
現在では、炭鉱の形跡をとどめるものはあまりありませんが、炭鉱跡地にできたものとしては、パチンコ屋にあるスロットのコイン回収機の工場は景気よさそうです。

炭鉱跡地の記念碑は草に覆われて、芭蕉の句を思い出さずにはおれません。

   夏草や つわもの(兵)どもが 夢の跡


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2009年10月20日火曜日

いのつき駅

<猪調駅>







この駅は平成2年に新設されました。

炭鉱があった頃はこのあたりには炭鉱の住宅(炭住)がたくさんありました。

2枚目の写真の気動車のすぐ左側に見えるのが、猪調小学校です。全盛期には児童数が3000人を超え九州1のマンモス校といわれたときもありました。現在は児童数140人ばかりの小規模校になっています。

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2009年10月18日日曜日

高岩駅

<たかいわ駅>



この駅も第3セクターになってすぐに新設されました。近くに写真に写っている江迎中学校がありますが、中学生の通学の利便性は良くなったことでしょう。

炭鉱があった頃は潜竜地区にも中学校がありましたが、現在は統合されて江迎町には中学校は1校だけになりました。



(写真は高岩)

この岩は江戸時代は平戸街道の街道筋にあり、迫力ある姿をしていて当時、通りがかった頼山陽がその姿のすばらしさを漢詩に詠んでいます。

しかし、現在の眺めにはがっかりさせられるものです。昭和30年代に崩落して、大きくせり出した岩はなくなりその後木や蔦が覆って壮観な眺めはまるでなくなっています。

地球温暖化のせいもあり、九州の低地の岩場はほとんど影を潜めています。 江迎のトンネルの上の岩には中学生の頃登って落書きをした岩も道路からは全く見えなくなりました。

佐々の椎の木坂の岩場は耶馬溪に勝るとも劣らないと長老が自慢していたところもわずかに見える程度に樹木が覆っています。

(写真は屠殺場跡)

高岩のすぐ上手に屠殺場があって子供の頃、牛や豚を屠殺した後の血をそのまま川に流していたらしく泡立ったものが・・・当時炭鉱で洗い炭をしてそのまま川に流していたので川の水は真っ黒(ぜんざい川と呼んでいた)でした・・・大量に流されるのですから異様なものでした。
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2009年10月16日金曜日

続江迎鹿町駅

<江迎本陣跡>



江迎には平戸の殿様が参勤交代などで出かけたときの最初の宿である本陣が残っています。
あちこちに本陣跡はありますが、昔のままの姿で残っているのは珍しく平戸街道ではここだけです。殿様が宿として使わないときは造り酒屋として商売をしていたのが江戸時代から現在も続いています。


(2枚目写真)は本陣内の「枕水舎」という殿様の休憩室として使われていた部屋だそうです。脇息の布は傷んで張り替えたそうですが、他のものは全て江戸時代のままだそうです。


(3枚目写真)は「とんちき屋」の墓です。右側の三角錐がそれで、門柱には「夢のごとく屁のごとくテケレッツノパア」などと書いてあります。
とんちき屋とは徳田真寿翁のことで調度品を何でも三角形にしていた奇人ということで有名になりました。この人も江迎に住んでいました。

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2009年10月14日水曜日

江迎鹿町駅

<えむかえしかまち駅>

昭和14年に平戸口ー潜竜間が開通したとき、江迎駅として作られました。行政区画上は鹿町町になるけど、川ひとつ隔てたところが江迎町の中心地になるためこのような命名を国鉄はしたのでしょう。
鹿町の人は日頃から不満を言っていましたが、第三セクターの松浦鉄道になったときすぐに「江迎鹿町駅」と改名しました。

この駅舎は今年8月に新改築されました。駅の表示よりラーメン屋の看板が目立ちますね。
炭鉱全盛の頃には両町とも人口は2万人超えていましたから、合併すれば市になるなんて話もされていました。
ところが現在では合わせて1万人を少し越すぐらいに減少し、来年の4月には佐世保市へ合併されることが決まっています。

(写真はカーブ鉄橋を渡るイベントカー)
子供の頃この鉄橋は日本1のカーブ鉄橋だと聞かされていました。スケッチの時間にはよくここを描いたものでした。
しかし写真を撮ってみるとカーブはあまり感じません。

江迎名物は8月23・24日に行われる「千灯篭祭り」でしょう。子供の頃夜店の前の通りは自分の足で歩くというよりは流されている感じでした。

(下写真はちょうちんの櫓)


千灯篭のシンボルタワーは昔の江迎小学校跡地に鉄骨で組まれていて、祭りのときだけちょうちんを付け夜になると電灯のスイッチが入れられます。


われわれの中学時代の仲間は例年この祭りに合わせて同期会をしています。今年も集まり昔話をしながら花火を見ました。見物人がめっきり減ったというのがみんなの感想です。最近は不景気


もあり花火も早く終わるようになりました。そして自家用車での見物人がほとんどで、花火が終わったらひとけはさっと引いてさびしい町に戻ります。


以前は臨時バスが次々に出てどれも鈴なりの客で混雑していたのが思い出されます。

(町中にもちょうちんが取り付けられます)


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2009年10月12日月曜日

すえたちばな駅

<末橘駅>




この駅は松浦鉄道でも一番最後に平成11年になってから新設されました。急傾斜の斜面に作られたので国道からは約50メートルほど上ったところで車は全く入られません。資材運搬には鉄道を使ったことでしょう。

車では行けず鉄道でしか行けない駅として有名な駅があちこちにあるけど有名にはならなかったようです。
駅名標には、しらうお漁の絵が描いてあり、駅下の末橘川には春になるとシロウオが上ってきます。漁業権は末橘地区内で入札を行い1番札を付けた人1人だけが四手網を使い漁をします。


(2枚目写真)駅下に町営住宅が見えますが、ここに私は結婚当初住んでいました。古ぼけたコンクリートブロックの2階建ての狭いところでした。今は写真のようにこぎれいなものに立て替えられました。
この駅から少し平戸よりに行ったら松浦線では最も長いトンネル(約1.5キロ)があります。上りの勾配は25パーミル(1000メートルで25メートルの傾斜)で、高校通学のときは、いやなところでした。
暖房が効いている冬場はいいとしても、冷房など全くない時代ですから夏場は目いっぱい窓を開けていました。トンネルに入ったらすぐに窓は閉めるのだけど、閉め遅れたり故障していたりしたら蒸気機関車の煙が車内に入ってきて大変でした。
ですからこの経験がある我々の仲間には、蒸気機関車を懐かしいとは思わない、もうこりごりだと言う人もいます。

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2009年10月10日土曜日

西田平駅

<にしたびら駅>


平成元年、第三セクターになって真っ先に造られた駅の1つです。
写真のような昆虫自然園の大きな看板が駅よりも目立ちます。
近くには北松(ほくしょう)農業高校(2枚目写真)がありますが、この駅
が出来るまでは、汽車通学生は平戸口駅から延々と歩いていました。かなり時間がかかったはずです。この学校は木造だったのが、丘の頂上付近に鉄筋コンクリートで新築されました。平戸瀬戸からもよく見えて、ホテルが建ったのだろうという人もいるぐらいです。






(3枚目写真)この駅の近くには、世界遺産に登録しようと長崎県が熱心な長崎の教会群の1つ「田平教会」もあります。

以前は全く見向きもされなかったのが、時々報道されるようになって、ドライブで訪れる人が増えたようです。昨年登録が見送られたときは県関係の人たちが残念がっていましたが、キリスト教という宗教施設を単に観光資源扱いしているだけならおかしなことです。東京オリンピック招致活動と何か似た感じがしてなりません。





(4枚目写真)は駅にある看板の昆虫園のメインの建物「昆虫館」です。ここは自然の姿の昆虫を探してもらおうとの発想で、辺りいったいの里山を自然園としています。
昆虫写真家として高名な栗林慧さんが 戻って来られてから田平町も力を入れて、昆虫の町となりました。近くの道の駅にはカブトムシの大きなオブジェが目を引きます。

(5枚目写真)は昔、種畜場といっていた長崎県の施設です。今は和牛センターと呼ばれています。



小学生の頃クラスで見学に来たことがありました。ものすごく大きな種牛や種豚がいたのに驚いたのをいまだに覚えています。


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