2009年7月30日木曜日

中倉万次郎の墓とその後の中倉家

<中倉万次郎の墓>


佐世保市世知原町北川内の中倉家の墓地に孫の一(はじめ)の建立による立派なものがあります。


(戒名) 仁量院殿万照浄境大居士


昭和11年2月6日死去享年八十有八


と刻まれています。


万次郎以降の家系は

  万次郎→豊太郎→一(はじめ)

       →一郎→(荒野)かな子→宏文 

かな子さんは荒野家に嫁いだけど、その長男は養子縁組をして中倉姓となり本人も中倉家を継承するそうです。

万次郎さんは明治元年に20歳という年まわりで、松浦藩の若様付という役だったそうで、その後も松浦家に仕え、殿様(廃藩置県の後は殿様とは言わなかったかもしれないが)が世知原の中倉家に泊まったこともあったそうで、門構え、池付の庭園そして二間続きの座敷と現在は痛みがひどいけど、昔のままのたたずまいが往時を物語っています。

今は一郎(故人)の妻、純(じゅん)さんだけがこの家に住んでおられます。家系や墓所についても純さんに伺いました。最初に伺ったときは留守でしたが、庭に黄色のユリの花が咲いていたので写真に撮りました。

昔といってもそんなに大昔のことではなく昭和30年代、「キヒラドユリ」というコオニユリの変種のものが平戸島にだけ咲いていたそうで、その後植物の伝染病などにより全滅したと思われていました。それが数年前に3株だけ見つかり、北松農業高校でウイルスフリーの処理をして株を増やしたとの新聞報道が最近されていました。平戸藩ゆかりの旧家の庭にひっそりと伝染病にもかからずに咲き続けていた、というシナリオを思い描いたけど・・・オニユリの変種のツシマオウゴンオニユリということでした。 



上<中倉家の庭に咲くツシマオウゴンオニユリ>
<キヒラドユリ(平戸黄色百合)>



佐世保軽便鉄道は今回を持って終了します。最後まで読んでいただきありがとうございました。


次回からは、その後国鉄松浦線となり、さらに第三セクターの松浦鉄道・西九州線となって現在走っています。これを紹介します。今後もよろしくお願いします。



2009年7月28日火曜日

昔の写真や資料4

(4)続々 井手先生 読者からの手紙

月刊誌「虹」を読んだ読者から井手先生に寄せられた手紙を見せていただいたのでそれを紹介します。


日付は昭和61年だから20年以上前のことです。元機関手の岡崎勇さんからのものです。軽便鉄道が国鉄に買収されて解散記念誌が出されたときには機関助手として名簿に記載されていて、出身地は佐賀県の相知村(現唐津市)となっています。


昭和9年から国鉄になる11年までの3年間の機関助手としての勤務状況が述べられています。佐々ー上佐世保間を1日6往復(片道約1時間)していたそうです。そして、乗務時間が1日平均14時間39分だったので、1年間で5347時間になるとのことです。機関助手は別名「罐焚き(かまたき)」といわれていたのですから劣悪の環境での重労働だったことは、容易に想像できます。


そしてその間休んだことが1日もなかったというのですから驚きです。公務員の勤務時間を計算して年間2000時間になるので、その265%労働時間になると書かれています。この3年間の死闘を世間に発表してから死にたいと思って新聞社やNHKに連絡しても何の反応もありません。憤りを感じているが、いつの日かこの件が活字になると信じます。と結んであります。


国鉄になって勤務時間は改善され「親方日の丸」の時代になっていったのでしょう。


近所のスーパーマーケットの前を歩いていたら、朝9:00~夜10:00と書いてあり、あさ7時には何人も仕事をしています。(名ばかり?)店長の勤務時間はどうなっているだろうかと気になりました。




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2009年7月26日日曜日

昔の写真や資料3

(3)続 井手先生 社章について


井手先生が発表された「松浦線物語」の中に佐世保鉄道株式会社社章として丸の中にSとIを図案化したものがあります。
当時社員だった人から聞きながら図案化されたそうです。

軽便鉄道の機関車、客車、貨車などの古い写真を太田社長さんから見せてもらったり、井手先生から佐世保鉄道の国鉄買収記念アルバムを見せてもらう中で、客車と貨車の横っ腹に大きくはっきりとSとIの図案化されたマークを発見した。なぜか機関車十数枚の写真にはマークははいっていない。他社から中古品を買ったのでしょうか。

そのマークを忠実に再現したのが写真のものです。佐世保軽便鉄道を英語表記したら
  Sasebo
  Insta
nt
  Rail way
となるのかもしれない。この会社ができた頃は大正デモクラシーの時代、英語表記がおしゃれだったのでしょう。I と見るかレールの断面と見るか掛詞ならぬ掛け文字と見たいものです。戦時中の敵性語排斥の頃とはずいぶん違うようです。
しかし、職種については、機関手、制動手、庫内手など英語表記は全くありません。轉轍手(てんてつしゅ)とはポイントの切り替え係りだったそうです。





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2009年7月24日金曜日

昔の写真や資料2

(2)井手一郎 先生(診察室で)

相浦港のところで内科医院を開業しておられる井手先生に佐世保軽便鉄道についてお話をうかがうことができた。

先生は旧制佐世保中学のとき4年半の間、相浦駅から上佐世保駅まで軽便鉄道で通学されていました。

このときの模様や佐世保鉄道が国鉄に買収されていったいきさつなどを月刊誌「虹」1985年(昭和60年)10月号に「松浦線物語」として投稿され10ページばかりに渡って発表されました。

先生は大正13年生まれの今年85歳になられていますがお元気そのもので、定期的に高島へも診療に行かれたりしておられます。また郷土の歴史に精通されていて「相浦郷土史」の編集委員もされ、佐世保市の史談会のメンバーでもあります。

また、井手家の家系は4代前の先祖は「新吾太夫」といい、松浦藩の最後の武士といわれているとのことで、立派な鎧兜や刀剣なども保存されているものを見せていただきました。

さらに、井手家と初代佐世保鉄道の社長で創設者の中倉万次郎家とは親戚関係になるとのことです。

さらにまた、先生は旧制佐世保中学が佐世保市保立町から日宇町へ移転したため、相浦の自宅からの通学ができなくなって、最後の半年を寄宿したところが、万次郎翁終焉の地、佐世保市保立町14番地のとなりの川下家だったそうでこの軽便鉄道との奇縁を非常に懐かしく感じておられました。


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2009年7月22日水曜日

昔の写真や資料1

(1)太田社長さん



有)太田電機の社長さんにはたくさんの写真や資料の提供を受けました。ご自身は旧制佐世保工業学校(機械科)の最後の学生で戦時中に軽便鉄道に乗って通学されていたので、そのときの様子など詳しく聞かせていただきました。


今までに掲載した写真には太田さんが保存されていたものを多数使用させていただきました。


最初、表紙のSLは世知原の資料館にあったものですが、それ以外は機関車、客車、貨車など多くの貴重な写真を見せていただきました。


国鉄松浦線が廃止になり、第3セクターとして松浦鉄道ができたとき、「旧松浦線を偲ぶ会」が行われたときの資料やそのときの模様を聞かせてもらい本文にも掲載させていただきました。


まだ掲載していないSLの写真を何枚か以下に掲載します。

















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2009年7月20日月曜日

こぼれ話10

(10)喜久屋について


<喜久屋の二代目夫婦>


臼の浦駅や袋が浦のことについて詳しく話を聞かせてもらった。


喜久屋は佐々町口石で商店をしていた湯浅菊蔵さんが臼の浦で創業を始めた。もともとは引き船屋だったそうだが、軽便鉄道が開通して臼の浦港まで石炭輸送ができるようになったら、鮮魚運搬船に変わった。昭和7年には奥さんが旅館と料理屋も始めた。


現在は三代目が釣り人相手の瀬渡し船とその客相手の旅館を経営している。


臼の浦港から石炭を積み出していた頃は活気があり大変賑やかだったそうだ。


現在は無人島になっている3島には住人がいたそうです。上小高島には養魚場と料理屋があり観光地となっていた。また下小高島とトコイ島(時計島ともいう)では石切り場があり生活していたそうだが今はそのときの住人はみんな九州本土に移り住んでいるそうです。




<現在の喜久屋>



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2009年7月18日土曜日

こぼれ話9

(9)袋が浦について


前回のこの写真は「袋が浦」と呼ばれていたところで、現在は西海国立公園の九十九島の一無人島に過ぎない「上小高島(かみこだかじま)」の壊れた橋の部分です。
軽便鉄道が走っていた時分は、観光名所で、1辺200メートルばかりの三角形の天然の生簀でこの橋のところを20~30メートル仕切って魚を生かしていたそうです。
写真右手には立派な建物の料亭が営業していたそうです。今もこの密林の中には廃墟があるそうです。
客としては、佐世保の海軍のお偉方が主だったようで、宮様も来たことがあったそうです。一般的には佐世保から軽便鉄道で臼の浦まで来て、船でこの島へ渡って来ていたようです。金持ちはタクシーで臼の浦まで来た人もいるでしょう。

喜久屋の渡し船「喜久丸」は大活躍していたそうです。
最近すぐ近くの無人島「トコイ島」(時計島ともいう、当時は石切り場があって住人が5~6戸住んでいたそうです)で非常に珍しい花「トビカズラ」が発見されて話題になったこともありました。


<瀬渡し船として現在活躍している「喜久丸」>



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2009年7月16日木曜日

こぼれ話8

(8)替え歌(鉄道唱歌で)


臼の浦まで軽便鉄道が開通したときは、小佐々町の人はたいそう喜んで地区住民総出の旗行列まであったそうです。開通から1週間無料で乗れたという人もおれば、3日とも1日だったという人もいる。今となっては分からない。臼の浦の人が作ったといわれる替え歌を紹介する。


 1 汽笛一声上佐世保

   はやわが汽車は離れたり

   桜の名所山の田を

   過ぎれば次は左石



 2 皆瀬中里夢の間に

   愛宕の裾を突き抜いて

   実盛谷のトンネルを

   通れば次は真申港



 3 眺めも尽きぬ佐々の浦

   鉄橋渡れば黒石よ

   百年前に刻まれし

   世にも名高い大悲観



 4 間もなく終点臼の浦

   連絡線は前列車

   渡るにやすき袋が浦

 # 上がるは喜久屋か寿か



最後の行(4番の#のところ)は昭和56年発行の「佐々町郷土誌」では「敢えて詮議の必要もあるまい」と伏字になっている。

たぶん編集委員長の宮原九一郎さんが気を使ったと思うし、旧松浦線を偲ぶ会の資料でもこの1行は空白になっている。そこで敢えて筆者がその1行を創作してみた。


喜久屋(きくや)と寿(ことぶき)は臼の浦駅のすぐ近くにあった特飲店である。したがって昭和33年には廃業している。寿は跡継ぎがなかったこともあり跡形も残っていないが、喜久屋は当時の孫に当たるものが瀬渡し業と釣り人相手の宿を経営している。


<現在の袋が浦>


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2009年7月14日火曜日

こぼれ話7

(7)続・女学生のいたずら



前前回の女学生のいたずらについてご本人から、少しニュアンスが違うとご指摘があり、特に口三味線と書いていたところを思い出して書いていただきました。当時の模様を思い起こしてください。

以下、道子さん(写真)の文です。

当時の車両は四つか五つ連結されていて、その中の一つが貨物と客の半々の車両でした。

女子学生が一両半、他は男子学生と決められていました。下校時の実盛谷駅からの、半分の車両の中での出来事です。

窓を背に向かい合わせお互いに立ったり、座ったりして車両を揺さぶり乍らはしゃいでいました。

またトンネル近くの登り坂にかかると、機関車があえぎあえぎ途中で止まることが度々ありました。その様子を面白可笑しく口真似する人がいて皆を笑わせていました。


オトト・オカカ・オトト・オカカ・
  
 オトト--オカカ--オトト--オカカ--

    オトトトト~~オカカカカ~~

       オットットットォ



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2009年7月12日日曜日

こぼれ話6

(6)機関手の逆襲2


1988(昭和63)年に国鉄松浦線は廃止になるところ、地元自治体の肝いりで第三セクター松浦鉄道(西九州線)として再出発することとなった。通称MRと呼ばれている。

この頃になると、佐世保の旧制中学に軽便鉄道を利用して通学していた人たちは、地元の有力者となっていた。

懐かしかったのでしょう「旧松浦線を偲ぶ会」の名簿を作り、佐々町の青葉の2階で宴会を行った。

「旧松浦線」とは軽便鉄道のことを意味している。名簿によると、佐世保中学、佐世保二中、西海中学、東和中学、佐世保商業、佐世保工業(いずれも旧制)、以上6校の出身者総勢155名である。残念ながら女学校出身者は除かれている。当日の参加者は70名以上あり大いに盛り上がったというこてである。

上の写真は、そのときの資料の一部である。

その会には、引退した元機関手も呼ばれていたそうです。その席上、飲むほどに、学生時代の悪さ話に花が咲き、上り坂に差し掛かったとき、ブレーキ操作をして汽車を止めた話になったら、元機関手の1人が真っ赤な顔になり、「お前たちだったのか」と元学生の胸倉をつかみ騒然となったそうですが、回りからなだめられそれ以上の大騒ぎにはならなかったそうです。


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2009年7月10日金曜日

こぼれ話5

(5)機関手の逆襲1


戦後の職名、呼び名は「機関士」であるが、軽便鉄道の職名には全て「○○手」となっているので、それに従うことにする。


後に国鉄の機関士をした山田さん(上写真)は軽便の最後ごろは若くて、まだ機関助手だった。助手の仕事はとにかく石炭を燃やすことで、上り坂にかかると懸命に石炭をくべていた。それにもかかわらず、登坂力が弱ったのを感じた機関手は助手に「客車を見て来い、石炭は俺がくべとく」と、言われた山田さんが客車に行くと学生たちはシーンと静まり返っていたずらなどするものはいない。以後上り坂も順調に上ってしまったそうです。


<当時の機関車>

2009年7月8日水曜日

こぼれ話4

(4)女学生のいたずら

昔、小学校を卒業したら、北松浦郡には女学校はなかったので、佐世保か平戸まで行かなければならなかった。

佐々近辺の人は佐世保に軽便鉄道で通学していた。そのときの様子を、写真の道子さんに聞くことが出来た。

当時の学生が乗る車両は誰が決めたというわけでもなく、1両目が女学生で、2両目が男子学生と決まっていたそうです。

その1両目は半分が貨物車になっていたそうで、しかも今のトロッコ列車と同じようなものだから、両側の窓際に背を当てて座っていたそうです。

そして片側のものが力を合わせて座席をゆすったら、その客車が揺れ出したそうで、それが面白くて向かい合った両側のものが代わる代わる力を入れてゆすって遊んだそうです。

また上り坂にかかるとよく止まっていたので、それを口三味線で上手にまねをする人がいて皆で笑い転げていた。と言うことです。


<当時の客車>

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2009年7月6日月曜日

こぼれ話3

(3)いたずら(男子学生)


いつの時代も学生たちは、大人を困惑させるいたずらをして遊んだようだ。学校に遅刻しても、汽車が遅れたといえば許された。授業をサボりたい学生はいろいろ工夫をして汽車を遅らせる算段をした。試験中はなおさらである。


そこで学生たちは上り坂にかかると連結器のところにある手動のブレーキハンドルを回して上れないようにした。すると機関士は後戻りして十分勢いをつけて坂を上らなければならなかった。2度も3度もこんなことをすればかなり遅れた。当時の時刻表は単純明快で、1時間に1本、たとえば臼の浦駅発は朝5時から夜8時まで毎12分であり、到着は毎45分と決まっていた。これは日本最初の汽車が、新橋ー横浜間に開通した明治5年のダイヤも同じだった。


実盛谷駅で乗り換えるものにとっては少しの遅れでも1時間後の汽車を待たなければならなかった。






手の込んだやり方は冬場の冷えたときに、最終列車の後部から水を線路にまいて翌朝凍らせて坂を上らないようにしたとの話も聞いたがはたしてうまく行ったかどうか疑問が残る。

筆者が高校時代に1度だけ不用意にブレーキ装置に触れて、田平(現平戸市)の坂をバックさせて、大目玉を食らったものがいたのを覚えている。



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2009年7月4日土曜日

こぼれ話2

(2)庫内手(こないしゅ)

前回の制動手のところで、もしかしたら名簿にないので、庫内手が兼務していたのかも知れないと書いていました。しかし、制動手は客貨車係や車掌などの職種に含まれ、庫内手は汽車係、後の機関区の職種だったことがわかりました。

そこで前回の分の最後の5行を削除しました。ブログは後から追加や、削除が出来て便利ですね。

庫内手の「庫」は機関車の車庫のことで、当時機関手を目指す者はまず、庫内手で入社し研修所で学び、試験に合格して機関助手、機関手となっていった。庫内手の仕事は機関車の手入れ、磨き上げることだった。そのほかには、車庫内の雑用なんでもやらされていたらしい。

国鉄になってからのものであるが、佐々機関区の写真が見つかったので添付します。扇型の機関車の車庫やその前の転車台がよくわかります。


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2009年7月2日木曜日

こぼれ話1

(1)制動手(せいどうしゅ)

軽便鉄道の調査を始めて、聞きなれない言葉があった。セイドウシュという。今風に言えばブレーキ・マンとでも言えば分かりやすい。この話をしてくれた人たちは、昭和16年から20年にかけて国鉄に採用された人たちである。

当時、英語は敵性語ということで使えなかったのでしょう。今では考えられないような職種である。


北松浦郡の人口は今の数倍はいて、客車は満員、鈴なりなんてのも珍しくなかった。しかし、なんといってもこの付近の産業の中心は石炭で、貨車というかトロッコ列車が走る中を、たまに客車が通ると言う感じだった。

石炭貨物列車は15両連結が普通で、1列車に3人の制動手が乗っていた。下り坂になりスピードが上がったらハンドルを回して車輪にブレーキをかけていた。1人当たり5両を受け持っていたわけで、次々に飛び移ってブレーキをかけなければならなかった。ブレーキがかからなかったら後ろの車が押しやって、脱線することになるのだから、大変な仕事だったと思われる。

労働基準法なんてものはなかった時代、機関車のスピードも今よりは格段に遅かったので出来たことでしょう。ブレーキ片は一般に鉄製だったけど、木製のものもあったそうで慌てたとき、その木を押し付けると熱のため燃やしたこともあったらしい。猿か軽業師みたいな仕事である。


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