2009年5月31日日曜日

佐々町の7駅



<現在の佐々(さざ)駅>

佐々は昭和16年に町制が施行されて佐々町となりましたが、昭和6年に軽便鉄道が敷設されたとき、また、これが買収されて国鉄となった昭和11年はまだ佐々村でした。その頃を知る人は、村(町)で国鉄の駅が7つもあるのは佐々だけだとたいそう自慢にしていました。

写真の駅は三代目の佐々駅です。この建物は平成2年に佐々町が約3000万円かけて建設しました。間伐材を利用して作られたログハウスと言うことで当時評判になり、デザインの奇抜さと資源の有効利用ということで全国的な賞を貰いました。

その割には、この駅の使い勝手は悪く、無人駅ではないけど利用者のマナーの悪さもあって二階は封鎖されて使えなくなり、トイレもわかりにくい所にあって落書きや壁を壊されたりしました。現在このトイレは封鎖され、外に立派な公衆トイレが佐々町の予算で建設されました。

平成の大合併では佐々町はどことも合併せず、人口1万3千人ばかりの小さな町が今まで来たのは町に財政的に余裕があるということでしょうか。

ブログの更新が今回大変遅れてしまいました。軽便鉄道の駅も進んできて、わが町に入りました。そこで駅の写真を青空をバックのものにしたかったので晴天を待ったために遅くなりました。これから順次佐々の7駅を紹介します。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月24日日曜日

実盛谷駅(2)




<後の実盛谷駅跡付近>


昭和6年6月に、実盛谷から臼の浦まで軽便鉄道が開通した。そのときの実盛谷駅は以前焼却場跡の写真を付けて示した実盛谷駅跡のところである。

その後、昭和18年8月に、北佐世保駅から現在の相浦駅まで国鉄線路が開通した。そのとき、佐々からは軽便鉄道しかなかったので、この写真の辺りに実盛谷駅を移転して作り、機関車C-11 が引く普通列車に乗客は乗り換えていた。当時、臼の浦駅の駅員として勤務していた山下さんは、「助勤」として、この実盛谷駅にも応援に来たことがあるそうです。

ここは現在、国道204号線本山トンネルから佐世保側に架かる跨線橋と松浦鉄道が交差するところである。駅舎とホームは写真左側にあり、右側に実盛谷トンネルに続く線路があったと農地と荒地で今も区別が出来る。軽便から普通列車に乗り換えるには低いところから高いところへ(線路自体も軽便はかなり低いところを走っていたので)大きな荷物の移動などはかなり難儀をしたと、身振りを交えて山下さんは話してくれた。

しかし、それも昭和20年4月には国鉄松浦線が全線開通し、軽便鉄道が走ることはなくなった。

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村



2009年5月21日木曜日

実盛谷トンネル(中里側)










上の写真はすべて実盛谷トンネル(中里側)入り口付近である。撮影日は上から順に平成21年1月20日、1月23日、3月8日である。
最初に行ったとき、真申側からトンネルを通り抜け、中里側へ出たら、そこは工事現場だった。

変なところから人間が出てきたと、怪訝な顔をしてブルドーザの運転手は作業を中断してこちらの質問に答えてくれた。間もなくこちら側は塞がってしまうこと、反対側もいずれ入り口は塞ぐことになるとのことだった。
真申駅からゴム長靴に懐中電灯を持って歩いてきた。途中、岩の堀切や潅木が茂っている細い線路跡の道は普段ほとんど人通りはなく、60年以上荒れ放題の割りにしっかりした道だった。

トンネルの中も一時期きのこ栽培をしたことがあったということで、資材が少しは散乱していたが、歩くことが出来た。多少手を入れれば立派な散策コースが出来ると思われた。
この実盛谷トンネル前後の線路跡の道を歩いて、この道を残したい。記録だけでもしっかり残したい。と言う気持ちから写真を撮り、お年寄りの話を聞いて取材を始めていった。

だんだん興味が広がり、佐世保軽便鉄道全体へとなっていった。

2009年5月19日火曜日

実盛谷トンネル(真申側)






<写真上>
本山バイパスからトンネルへの入り口、掘り切りになっている。

<写真中>
トンネル近くの掘り切り、岩肌が荒ら荒らしく人力で掘り切った様子が良くわかる。木がうっそうと茂って、好天にもかかわらず、周囲は薄暗い。

<写真下>
トンネル入り口、アーチの石組みはしっかりしている。この写真は平成21年1月20日に撮影した。トンネル出口側(実盛谷駅側)の空間が見えているが、現在は高速道路工事のため片側だけふさがれている。

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村






2009年5月18日月曜日

実盛谷(さねもりだに)駅



<実盛谷駅跡>

軽便鉄道が廃線になった後、佐世保市のゴミ焼却場が作られた。写真のコンクリートの残骸と赤レンガは焼却場が嘘越えに移転した後そのまま放置されたものである。高い煙突もあったが、取り壊したか、倒れたかわからないが今は、見当たらない。
背後の山の斜面の削られたところを高速道路が通る。

中里駅と上相浦駅との中間点で、現在の鉄道とは反対の、相浦川の右岸である。
実盛谷の名前の由来は旧平戸松浦藩の時代、相浦谷七ケ村での虫追い行事で、斉藤別当実盛の武者行列が鐘、太鼓で里美(さとよし)から下り、実盛谷を最後に打ち上げていた。虫追い行事の終焉の地であることから来ている。(相浦郷土誌による)


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月17日日曜日

軽便鉄道の料金


<相浦郷土誌・料金表など>
会社名が佐世保鉄道となっているので大正12年12月26日以降であり、左石の駅名が大野となっているので昭和4年4月20日以前の資料である。
写真右上に、料金のことを賃金と書いてある。上佐世保ー相浦間の料金は大人37銭、子供19銭である。
写真右下には駅間の哩程と書いてあるので当時は哩(マイル)を距離の単位として使用していたようだ。機関車はもちろん、レールも輸入していた時代であるので当然だろう。
それでいくと上佐世保ー相浦間は6.6哩・およそ10キロということになる。
写真左のページは定期の割引と団体割引のことが記されているが、団体の人数が25、100、200人を区切りにしている。小さな汽車に大勢の人がひしめき合っていた様子がほうふつさせられる。
写真をクリックして拡大してご覧ください。

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月16日土曜日

上佐世保駅

<(上)上佐世保駅跡に建つ教会の沿革碑>

現在は俵町カトリック教会と桜の聖母幼稚園になっている。

<(下)幼稚園>

大正10年に大野(現左石)-上佐世保間が開通した。相浦ー柚木間が開通して1年半後のことである。教会の沿革を記した記念碑によると、昭和26年に門司鉄道管理局から旧上佐世保駅舎ごとこの地を購   入している。駅舎はそのまま教会として使われたと記されているが、現在では建て替えられ面影はない。この幼稚園に子供を通わせた母親の話では、幼稚園の下には鉄道線路が埋まったままであると、園長先生が話されたそうです。

国鉄松浦線になったとき、上佐世保駅はなくなり、それより300メートルばかり上手に北佐世保駅として新たな駅が作られた。

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月15日金曜日

山の田駅(初代)


<上 二代目山の田駅>
<下 駅付近の踏み切り>
この駅と昨日の泉福寺駅名とには初代と言うのを付ける。軽便鉄道から国鉄に変わり、松浦線が佐世保から有田まで全線開通したとき、この2つの駅は消滅していた。
この付近を歩いてみれば良くわかるのだが、谷間の狭い岩だらけの斜面に無理やり鉄道を通したという感じがする。直線の平らな区間はほとんどない。しかも昭和20~30年代の炭鉱全盛期の頃から、客車は4両編成だったので、駅にホームを作るようなところがなかった。
ところが松浦鉄道と言う第3セクターになりディーゼルカーが登場すれば、どこにでも、バスの停留所並みに駅が作れるようになった。
そこで今の山の田駅と泉福寺駅は二代目と言うことになる。駅の場所は軽便の頃とことごとく変わったが、この山の田駅と踏み切りは全く変わっていない。地形から他は考えられないのだろう。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月14日木曜日

泉福寺(せんぷくじ)駅(初代)



<泉福寺駅跡>

山口歯科医院前の交差点である。左手平屋の民家辺りが駅跡である。

線路は左手前から中央の路地を通って向こう側へ走っていた。左石駅は向こう側になる。

国鉄になり線路は交差点の右100メートルぐらいに移動し駅はなくなった。第3セクターになり二代目泉福寺駅が復活した。その駅はここから約200メートル佐世保よりに作られた。


<二代目泉福寺駅>


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月13日水曜日

柚木(ゆのき)駅


<柚木駅跡>

写真中央5階建て市営住宅のところに昔の柚木駅があった。手前のコンクリートの塊は石炭を貯蔵して貨車に積み込むポケット(ホッパーとも言っていた)の一部が残っている。

相浦駅から建設が始まって終点である。柚木では炭鉱が早くから操業されていて、この石炭を相浦港から船出しするするための鉄道と考えられる。もちろん客として人を乗せて料金を取っている。

大正時代のこの頃佐世保港は軍港として栄えており、民間が使用することは考えられないことだったろう。今の柚木、池野地区は佐世保のベッドタウンとして住宅やアパートが建ち大勢の人が暮らしているが、当時炭鉱以外ではわずかな農家が傾斜地を耕作していたことだろう。この軽便鉄道の開通によって地域が発展したことは確かなことだ。

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月12日火曜日

池野(いけの)駅



池野駅は出来た当初は重石(かさねいし)駅と言われていた。

<上 池野駅跡は公園に>

この辺り一帯が池野地区であり、その中心地が重石である。つい2年前まではここに池野駅のホームの残骸があったとM氏が説明してくれた

<下 廃線跡は遊歩道>

左石から柚木までは軽便鉄道の後、国鉄松浦線の支線で柚木線と呼ばれていたが、炭鉱の閉山もあり、昭和49年に廃止された。

その後、線路跡は舗装されて遊歩道となった。

写真のように中央線があって人と自転車を区別するような立派なところもあるが、自動車が出入りする部分もかなり多く見られる。

廃線後、かなりの時間を置いてから遊歩道にしたため自動車に侵食されていったものだろう。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月11日月曜日

左石(ひだりいし)駅



左石駅は当初大野駅といっていた。

写真中央奥の赤い屋根の建物(現在佐世保市役所大野支所)のところが駅舎のあったところで、手前から続く道路が線路跡である。

支所の手前タクシーが止まっている建物が現在の駅舎で右端にホームがある。

左石の地名の由来は平戸街道を平戸から佐世保へ向かってきたとき、道の左側に大きな石があることによる。大野地区の中心地が街道では左石宿とよばれていた。

石炭産業が盛んだった頃のこの駅周辺には官舎もあり、分岐線や入れ替え線などもあり鉄道関係の物として広いスペースがとられていた。しだいに鉄道関連施設は縮小され、ホームも短くなりその空き地は駐車場となってきた。つぎはぎだらけのごみごみした感じがする。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月9日土曜日

皆瀬(かいぜ)駅


<皆瀬駅跡>
皆瀬郵便局横の細い路地の突き当りが軽便鉄道の駅舎があったところである。
現在の松浦鉄道が右側の一段高くなったところを走っている。
一段低い空き地のところを軽便鉄道が走っていて、手前の広くなったところが駅舎跡である。
現在の駅はここから100mばかり佐世保よりにある。昔の駅舎には駅長以下数人の駅員がいたが、今は無人駅である。
この駅のことについて詳しく話してくれたお年よりは、昔の皆瀬地区、特に郵便局のある通りは店も軒を連ね人通りも多く大変賑やかだったのに寂れてしまったと嘆いておられた。確かに商店はまばらにしか開いておらず、シャッター通りとはまた違う木造の淋しさが感じられる町の通りである。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月8日金曜日

中里駅

< 中里駅跡 >


軽便鉄道のときの中里駅は現在の下本山公民館(写真の白い建物)のところだった。

したがって写真の公民館へ続く道路に線路が敷かれていた。

そして現在の中里駅前に向かう国道に佐世保方面へと続く線路があった。

後の松浦線(現松浦鉄道・通称MR)は写真の右側2~3メートル高いところを通っている。

軽便鉄道は当時の道路と同じ高さのところに敷設されるのが一般的であった。

写真の左後ろの山は相浦富士の愛宕山である。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月7日木曜日

相浦駅―上相浦(はじめは山口駅)―実盛谷

<  相浦駅付近  >   



相浦駅は現在とほぼ同じ所にあった。


線路は蛭子町を通り相浦西小学校横の堀切はトンネルであった。戦時中このトンネルを使わなくなったとき軍の倉庫として使われた。終戦後、その物資は近くの住民がみな持ち出したとのことである。坂を下ったあと相浦川右岸に沿って上る。


  < トンネルだった掘り切り >



現在県警のアパートが建っているところに、山口駅が作られたが後に上相浦駅となる。

 <  山口駅跡 (のち上相浦駅) >




写真背後の美しい山は佐世保富士のひとつ愛宕山である。



< 踏み切り >

大坪歯科医院のところの四差路には踏切があった。汽車が通るときは遮断機を下ろして笛を吹いて通行人に知らせていた。さらに川沿いにアスファルト舗装された線路跡の細い道路が続く。自動車も通れるが離合できる場所はほとんどない。舗装が途切れたところに焼却場跡の建物が残っている。この辺りが佐々方面への分岐点と思われる。そこから山手へ入って行く谷が実盛谷である。今、西九州自動車道の建設がトンネルの真上を工事中である。トンネルの入り口は土砂で塞がれて、はるか高いところを通る高速道路の斜面になっている。

  <  実盛谷  >
後に国鉄が松浦線を現在の中里―上相浦―相浦と新設したとき、実盛谷駅は乗換駅となった。その地点は国道204号線本山トンネルから佐世保方面への跨線橋とM R線路が交差する地点と思われる。元国鉄職員の山下昭二氏(昭和2年生まれ)と線路脇に立ったら駅舎跡はここで軽便の線路がここだと言うように周りの農地とはっきり区別できた。



にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月6日水曜日

路線図

路線図

軌間 762mm

現在の軌間は1076mm)




(これをクリックすると画像が大きくなります。)


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年5月5日火曜日

生い立ち

鉄道の佐世保駅は1898年(明治31年)1月に早岐駅からの線路が来て開通した。同年8月には有田―伊万里に伊万里鉄道が開通した。それに比べ北松浦郡の鉄道はかなり立ち遅れている。当時は石炭より焼き物特に有田焼は重宝されていたと言うことだろうか。
<  中倉万次郎顕彰碑  >  
    
佐世保軽便鉄道の開通を年代順に書くと。
              
(1)1918年(大正7年)3月11日 中倉万次郎(初代社長)鉄道敷設願い提出
(2)1918年(大正7年)4月29日 認可される(なんと早いこと)
(3)1919年(大正8年)1月 起工 資本金50万円
(4)1920年(大正9年)3月27日 相浦―大野(のち左石)―柚木 開通
(5)1921年(大正10年)10月 大野―上佐世保(現在俵町聖母幼稚園)開通
(6)1931年(昭和6年)6月 実盛谷―臼浦 開通
(7)1931年(昭和6年)12月 四ツ指(のち四ツ井樋)-佐々 開通
(8)1933年(昭和8年)10月 佐々―世知原 炭鉱専用鉄道を買収

以上で全線が開通した。その際、上佐世保―左石―佐々―吉井―世知原が本線で、左石―柚木、実盛谷―相浦、佐々―臼浦の3線が支線となる。また佐世保― 左石(後には上佐世保)間は連絡バスを鉄道会社が走らせていた。社名も大正10年には軽便を取って「佐世保鉄道株式会社」となる。軌間は 762㎜であるから国鉄の1067㎜よりはずいぶん狭い。
   
  < 世知原の公園 >
世知原の公園1936年(昭和11年)10月1日 国鉄 松浦線となる。軌間は 762㎜のままで。
    






にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

佐世保軽便鉄道