<つきのかわ駅>
調川と書いて「つきのかわ」と読める人はあまりいないでしょう。
昭和8年に国鉄が今福ー志佐(今の松浦)間の延伸を行ったときこの駅は作られました。
駅名標の後ろの建物には「エンマキ」とあります。遠洋巻き網漁業の省略でしょう。調川港のアジ・サバの水揚げは日本1ということです。
現在は魚市場の町ですが以前は炭鉱の町でした。私が小学校1年か2年の頃、父に連れられて1度だけ来たことがありました。
この駅の印象はものすごい数の石炭を積んだトロッコが駅周辺にいたことです。引込み線もあり、広い構内で、そして町も賑わっていました。
そのときの父の用件は駅近くにあった電気店でラジオの修理をしてもらうことでした。なぜか貧乏な引揚者の家だったけど、真空管の5球スーパーヘテロダインのラジオがありました。飛島にいた頃JOAK(NHK東京)を受信していたのを覚えています。当時は混信もなく朝鮮語の放送の邪魔もなかったので雑音もなくよく聞こえていました。
別件ですが、最近それも今年になってから韓国のラジオ放送が全くなくなり、散々悩まされた西九州のAMラジオ放送は平和を取り戻しました。
戦争悲話
1943年(昭和18年)4月5日の夕方、この駅で脱線事故が発生した。貨物列車がポイントのところで脱線したもので、事故はそんなに大きなものはなかったが、本線の運行に支障が出るため大急ぎで復旧作業に取りかかった。しかしすでに辺りは真っ暗であったことに加え、当時は全国で灯火管制が敷かれ、軍部の厳重な監視下に置かれていたために灯りをともすことが出来ず、作業が全くはかどらなかった。
このため当時の丸山駅長は悩んだ末に「多少のもつれは仕方がない」として、灯りをともし復旧作業を完了させたが、その行為が近くの山上にあった軍の監視所に確認されてしまった。丸山駅長はその後、この事故の責任と軍命令違反の全責任をとって自殺した。自殺行為に及んだことからして、丸山駅長はこの事故処理の後に軍からかなりの叱責を受けたものだと思われる。
この稿は「ウィキペディア」から引用しました。私はこの悲話の5~6年後にその現場付近に行ったことになります。軍隊とは国民の事を何も考えない集団ですね。
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