2009年9月30日水曜日

東田平駅

<ひがしたびら駅>
昭和10年に国鉄が平戸口まで線路を延伸したときこの駅は「田平駅」として新設されました。
松浦鉄道となって同じ田平町に他に2箇所駅が新設されたので、「東田平駅」と駅名を変更しました。


子供の頃、この駅で降りて「一六海水浴場」に何度か来たことがありました。線路は山側を通っているので、海岸の海水浴場までは少し歩かなければなりません。行きはよいとしても帰りは坂道を登らなければならず、夕方の西日をまともに受けて汗だくになった記憶があります。
当時江迎に住んでいたので近い(汽車賃が安い)のと客が志佐海水浴場と比べたら少ないことで気楽に行けました。


その後、子供が小学生になった頃家族で来た時には、盆過ぎではあったけど他の客は全くいなくてプライベートビーチを貸し切った感じでした。
現在も海水浴場として夏場には営業しているようですが、ここに行ったという話を聞いたことがありません。


(下写真)駅近くの国道沿いにある食堂の看板に「一六」とあったので懐かしかったので写してみました。

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2009年9月28日月曜日

西木場駅

<にしこば駅>

 平成3年に新設された駅です。ここまでが松浦市で次からが平戸市になります。
国道204号線から少し入り込んでいて、車で走っていれば目に付きにくいところにあります。
国道沿いには簡易郵便局があり、大崎小学校も近くにあります。以前通ったときには、精米所もありましたが、今では営業していないみたいです。周りは田んぼと畑ばかりで民家はあまりありません。

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2009年9月26日土曜日

御厨駅

<みくりや駅>
昭和10年に志佐ー平戸口間が開通したとき、肥前御厨駅という名称で新設されました。
昭和63年に第3セクター松浦鉄道になったとき「御厨駅」となりました。


(上写真)ホームにはカンナとエンゼルトランペットが咲いていました。
カンナの花を見ると昔炭鉱住宅の長屋に咲いていた印象がとても強くその生き残りが咲いているという思いになります。
高校のとき、この駅で乗車するクラスメートが何人もいました。特に御厨の海岸線というか星鹿(ほしか)地区からの数人とは卒業後も付き合いが続きました。

中でも、奥野勝由君とは断続的に長い付き合いがありました。若い頃はマージャン仲間として、よく徹夜していました。その後、市会議員に立候補するようになってからは選挙のたびに応援に出かけていました。

落選と当選を繰り返し、連続当選を果たし、これからは安定した選挙が出来るとなった頃、奇病・難病にかかり還暦を迎えることもなく不帰の人となりました。

(下写真)は星鹿の城山(じょうやま)に出来たスロープ式の展望台、

奥野市会議員が最後に行った仕事です。難病にかかり車椅子で上るためのものかと思ったりしたけど、病気になる前に設計は出来ていたとのことでした。最後の選挙のとき地元への公約として展望台建設を掲げていました。彼の死後、何度か展望台に上って見たけど360度の眺望が出来、晴れた日には壱岐の島も見ることが出来るすばらしいところです。

<城山の展望台>




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2009年9月24日木曜日

松浦発電所前駅

<まつうらはつでんしょまえ駅>


平成元年に九州電力の松浦発電所が運転開始しました。その年にこの駅も開業しています。

駅の正面の煙突と建物が見えているのが、九州電力の1号機で出力は70万キロワットです。2号機(同じく出力70万キロワット)は電力需要の減少のため建設が延び延びになって2036年といわれています。

写真の右側には電源開発(最近はJパワーと呼ばれることが多い)の松浦火力発電所があり100万キロワットX2で200万キロワットの出力です。

これらの発電機は石炭を燃料として発電しています。全部出来上がったら340万キロワットの「東洋一の石炭火力発電所」といわれています。東洋一という言葉には何か胡散臭さをかんじます。というのも戦時中に佐世保市の真申に出来た通称60P(蒸気の圧力が60気圧のことでしょう)の石炭火力も当時東洋一といわれていました。その後負け戦に突き進んでいきました。

ここのボイラーで燃やす石炭は全て外国から船で輸入しています。何度か見学に行きましたが、比較的小さい船は中国から、大きな船はオーストラリアからのものです。さらに大きな船は南アフリカからも来ています。

数年前になりますが、石炭を荷揚げしていたときに財布を見つけたことがありました。調べたら石炭積み出しをしたオーストラリアの作業員のものだったと新聞報道されていました。

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2009年9月22日火曜日

松浦駅

<まつうら駅>


昭和8年に国鉄がこの駅まで延伸したときは、志佐駅といっていました。

現在の松浦市は昭和30年に今福、調川、志佐、御厨の4町が合併して市制を敷きました。その4年後 志佐駅を松浦駅と改称しました。4町合併では市の中心地でもあり、市役所も志佐に新しく作られました。

この駅は松浦鉄道では数少ない有
人駅ですが、改札業務はやっていません。新駅舎が平成15年に建てられました(上写真)。


(中写真) は駅舎内にある旧駅舎の 絵画ですが、松浦高校の生徒の作品で、卵絵と説明書きがありました。卵の殻に色を付けた貼り絵です。

(下写真)は近くにある道の駅「海のふるさと館」です。農産物もありますが、やはり海産物は豊富にあります。私の大好物の「シャコ」は他ではあまり手に入らなくなってきたけど、ここには良く入ります。それでもすぐ売り切れるので、電話予約して朝のうちに行かなければなりません。


2009年9月20日日曜日

志佐海水浴場駅跡(臨時)

<しさ海水浴場臨時駅跡付近>


志佐海水浴場駅は現在の大浜西バス停付近に夏場だけ開設する臨時駅でした。
(上写真)右側の道路は国道204号で、線路左側の松の木は昔の海水浴場の縁にあった松の木みたいです。

ここは長崎県北随一の海水浴場で、文字通り「白砂青松」の浜でした。炭鉱全盛の頃は大勢の人でひしめき合っていました。佐世保から米軍兵士たちもやってきていたのも良く見かけました。

炭鉱閉山とともに 人口が激減したので、(下写真)遠浅の海岸を埋め立てて工業用地と立派な道路を造成しました。
この道路(総延長約2キロ)はつい最近まで有料道路でした。有料(普通車100円)の頃試しに走ってみましたが、他の車はほとんど見かけませんでした。

無料になった今回の取材を自転車で行っても並行して走る国道204号線より交通量は少なく自転車道路としては快適でした。
工場誘致で雇用を増やす効果はあったでしょうが、この道路は無駄なものと思われます。

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2009年9月18日金曜日

調川駅

<つきのかわ駅>


調川と書いて「つきのかわ」と読める人はあまりいないでしょう。

昭和8年に国鉄が今福ー志佐(今の松浦)間の延伸を行ったときこの駅は作られました。

駅名標の後ろの建物には「エンマキ」とあります。遠洋巻き網漁業の省略でしょう。調川港のアジ・サバの水揚げは日本1ということです。

現在は魚市場の町ですが以前は炭鉱の町でした。私が小学校1年か2年の頃、父に連れられて1度だけ来たことがありました。

この駅の印象はものすごい数の石炭を積んだトロッコが駅周辺にいたことです。引込み線もあり、広い構内で、そして町も賑わっていました。
そのときの父の用件は駅近くにあった電気店でラジオの修理をしてもらうことでした。なぜか貧乏な引揚者の家だったけど、真空管の5球スーパーヘテロダインのラジオがありました。飛島にいた頃JOAK(NHK東京)を受信していたのを覚えています。当時は混信もなく朝鮮語の放送の邪魔もなかったので雑音もなくよく聞こえていました。

別件ですが、最近それも今年になってから韓国のラジオ放送が全くなくなり、散々悩まされた西九州のAMラジオ放送は平和を取り戻しました。

戦争悲話

1943年(昭和18年)4月5日の夕方、この駅で脱線事故が発生した。貨物列車がポイントのところで脱線したもので、事故はそんなに大きなものはなかったが、本線の運行に支障が出るため大急ぎで復旧作業に取りかかった。しかしすでに辺りは真っ暗であったことに加え、当時は全国で灯火管制が敷かれ、軍部の厳重な監視下に置かれていたために灯りをともすことが出来ず、作業が全くはかどらなかった。
このため当時の丸山駅長は悩んだ末に「多少のもつれは仕方がない」として、灯りをともし復旧作業を完了させたが、その行為が近くの山上にあった軍の監視所に確認されてしまった。丸山駅長はその後、この事故の責任と軍命令違反の全責任をとって自殺した。自殺行為に及んだことからして、丸山駅長はこの事故処理の後に軍からかなりの叱責を受けたものだと思われる。

この稿は「ウィキペディア」から引用しました。私はこの悲話の5~6年後にその現場付近に行ったことになります。軍隊とは国民の事を何も考えない集団ですね。 

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2009年9月16日水曜日

前浜駅

<まえはま駅>



国鉄の頃、今福駅と次の調川駅との間は6キロあり、途中は山ばかりだったけど、この前浜には小さな海水浴場があったところを埋め立てて住宅地や工場を誘致したりして集落ができました。

そして平成2年に前浜駅が新設されました。

現在も海岸の造成は続いている模様です。この辺りの線路は海岸線を走っていたものが、海はあまり眺められず、まだ工場の建っていない殺風景な造成地を見ながら走ることになります。
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2009年9月14日月曜日

鷹島口駅

<たかしまぐち駅>



前々回の福島口駅が浦ノ崎港の桟橋のところに作られたように、鷹島へのフェリー桟橋がある今福港のところにこの鷹島口駅は平成2年に新設されました。
確かに桟橋から最短距離の線路のところに駅は作られています。しかし、駅に行くためには、民家の間の狭い坂道を登っていかなければなりません。車で行くことはできません。

<フェリーに乗用車が乗り込んでいる桟橋



この桟橋から 鷹島へのフェリーが運航されています。今年4月に鷹島肥前大橋が開通しました。普通なら橋が架かればフェリーはなくなるはずですが、減便にはなったけど、まだ運行されています。9月からはさらに便数は減らされるとのことです。


フェリーは25分で鷹島に着きます。途中飛島に立ち寄ったらもう少し時間はかかりますが、橋が架かっている佐賀県唐津市肥前町まで車で走れば1時間以上はかかります。だからフェリーはなくならないのでしょう。

しかし、乗船した船は乗用車ばかり数台で大型トラックは1台もありませんでした。以前は、大型車が多くて早く行って並んでいないと積み残しになることもありました。

<鷹島肥前大橋>

この橋は3月には出来上がっていたけど4月になってから開通させました。橋が架かれば離島ではなくなり、離島振興法の適用を受けられなくなるので、4月開通で1年余分にもらおうとのことだそうです。

この橋には歩道もあり歩くこともできます。なんと言っても車の通行料金が無料というのがすばらしいものです。今は民主党が総選挙に勝って高速道路を無料にするといっているので珍しくありませんが、長崎県では長崎市にある女神大橋(もちろん有料の橋)に次いで2番目に大きな橋(1251メートル)です。
橋が架かってからは島の中の交通事情が一変しました。県外ナンバーの車も含めて狭い駐車場はどこも平日でもあふれています。
鷹島の鷹は英語でホークということで、プロ野球ソフトバンクホークスとタイアップした催しをしたり、王監督(当時)の揮毫による記念碑などもあります。


<今福港の突堤は釣堀>



今福の港から終戦間もない昭和23年、少しばかりの家財道具と一緒に家族4人が小さな漁船に乗り、父の就職先である飛島に渡ったのが小学1年の秋でした。2年になった春には今福に戻ってきたので、この突堤では良く遊びました。当時より突堤は延長されていました。夏休みで大勢魚釣りに夢中になっていました。釣れるのは本当に小さいものばかりでした。



<今福から見た鷹島>






<松浦水軍の兜がある道路公園>

敵の大将がこんなのをかぶっていたら、那須与一ならずとも打ち落としたくなるでしょうね


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2009年9月12日土曜日

今福駅

<いまぶく駅>

有田から20番目の駅が今福駅でここからは長崎県になります。
駅前はロータリーのような広場みたいになっていて、松浦市のコミュニティーバス停にもなっています。しかし、いまどき全く舗装がされていなくて、工事中でもないのに土がむき出しのままになっているのは非常に珍しく感じました。そのバス停の次の停留所が「人柱」となっているのにはまたびっくりさせられました。

駅から少し市街地の方へ行ったところのお宮に「人柱」のいわれが詳しく記されています。海岸に堤防を作り干拓工事の際、言い出しっぺが犠牲になって人柱になったいきさつです。
子供の頃から「父は丹後の人柱」というくだりは良く覚えていて、肥前の地なのになぜ丹後というのだろうと不思議に思ってはいたけど、誰にも聞かず、調べもしなかったのが今回の取材でやっと分かりました。


今福は松浦党の発祥の地で梶谷城がそもそもの始まりということです。そこで松浦丹後守を名乗っています。京都から来たということになっています。城跡は公園として整備されていますが本家の今福より、分家の平戸がよほど立派です。





私事で恐縮ですが、小学校の2年~3年のとき今福小学校に通っていました。今では写真のように立派な校舎がありますが、終戦間もない頃だったので教室が極端に不足していたのでしょう。2部授業で午前と午後に別れて半日づつ登校していました。午後の登校をしていたら午前の友達が帰ってきているので、一緒に帰ってきたりしたものでした。

なぜだかこの学校のときの学芸会で「村の渡しの船頭さん」を踊りました。「・・・今年60のお爺さん、歳はとってもお舟を漕ぐときは、元気いっぱい櫓がしなる・・・」というところ既にその年代を過ぎた今、気になりますが、当時の60歳はそんなものではなかったでしょうか。

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2009年9月10日木曜日

福島口駅

<ふくしまぐち駅>




有田駅からこの福島口駅までが佐賀県です。

上の写真、駅名標中央下の赤い花は福島の花「椿」です。例年3月の第1日曜日に椿祭りが行われています。



上の写真は向かい側に福島(白いLPGのタンクがあるところ)が見えている桟橋です。小さいけど係留されている船が渡し舟です。

松浦鉄道になって2年後(平成2年)にこの福島口駅は作られました。

1967年(昭和42年)には福島大橋が架かりすでに離島ではなくなっています。この橋は伊万里市との間に架かっています。現在、合併して福島町は松浦市になりました。行政区域は長崎県です。橋も桟橋も佐賀県とつながっているけど、高校生は長崎県の学校へかなり不便な思いをして通学しています。道州制が早く引かれたら福島にとっては便利になることでしょう。




取材は電動アシストの自転車で行ったけど、バッテリーが切れかけたので、やってきた気動車に自転車を乗せて帰りました。朝の通学時間帯以外であれば切符を持っていれば無料で自転車を乗せることができます。




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2009年9月8日火曜日

浦ノ崎駅

<うらのさき駅>




この駅の駅名標は国鉄時代の木枠みたいです。

伊万里を出発した気動車は浦ノ崎の少し前でトンネルに入る。トンネルを抜けると右手は海岸であるけど、そこには海の眺めをさえぎるようにコンクリートの廃墟が蔦やかずらに幾重にも巻かれてたたずんでいます(2枚目の写真)。


ここは太平洋戦争のとき日本軍の軍艦を作っていた川南(かわなみ)造船所の跡だそうです。後のほうでは、魚雷や魚雷艇を作っていたとも言われています。


私の最初の職場の先輩に松浦から伊万里高校に戦時中通学していた人がいて、当時この辺りを列車が通るときは、海側の窓は全部ブラインド(当時は木製の鎧戸でした)を降ろさせられていたということでした。いかにも旧軍の考えそうなことですね。


戦後の浦ノ崎駅は桜の名所として有名になりました。いつごろ植えられたものか知りませんが、満開の桜の中を気動車が走る姿は絵になりますね。佐賀県の桜の名所のひとつに数えられています。





<満開の桜の中、浦ノ崎駅を出発>







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2009年9月6日日曜日

波瀬駅

<はぜ駅>



松浦鉄道・西九州線となって3年後に新設された駅です。したがって、比較的直線区間の平らな何もない狭いスペースに駅は作られました。この駅での気動車の離合はできません。

1日の平均乗降客18人と全線中最も少ない駅です

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2009年9月4日金曜日

久原駅

<くばら駅>




昭和5年10月1日にこの駅は新設されました。

したがってホームも2面あり、上下2線すれ違うことができる駅になっています。

この付近は伊万里湾の出口に近いところで、埋め立ても進んで広い埠頭が建設されました。久原埠頭と呼ばれています。

向かい側にある名村造船所に行くために伊万里湾大橋が建設されています。

この埠頭は輸入材木の集積地と聞いていました。確かに材木はあちこちによく見かけます。

10年(?)ほど前に通りかかったとき、北朝鮮の国旗が描かれた煙突の貨物船が丸太を積んで入港していました。

その後、拉致事件が報道されて、北朝鮮からの船舶は入港できなくなって全く見ることはできません。あのとき写真を撮っておけばよかったと残念です。

広い埠頭の敷地に倉庫のような建物は増えてきましたがまだ空き地も目立ちます。

立派な道も交通は少なく、税金の使い道として適当であったのだろうかと考えさせられます。


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2009年9月2日水曜日

鳴石駅

<なるいし駅>





第三セクター松浦第鉄道になって2年後にこの駅は新設されました。


近くの伊万里湾が埋め立てられて埠頭が建設されました。そこからは伊万里湾大橋も架けられました。

しかし、まだ十分には土地も道路も使用されているとは言いがたいようです。



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