2009年8月30日日曜日

楠久駅

<くすく駅>






















伊万里鉄道が国有化されて国鉄伊万里線となって最初に延伸開業したのが昭和5年で、この楠久駅もこのとき新設されました。


したがって駅構内は広く(2番目の写真)2面2線となっています。長いホームは現在では使用されていない部分が多く、駅員もいなくていわゆる無人駅です。





この駅では荒熊稲荷神社(写真3枚目)が有名です。お稲荷さんですから赤い大きな鳥居が遠くからも目立ちます。


立派な社殿や清掃が行き届いた様子はお参りする信者の数が多いということでしょう。






















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2009年8月28日金曜日

里駅

<さと駅>





この駅は松浦鉄道に転換後新設された駅です。東山代町の中心が移動して里近辺が民家も多くなってきたために利便性を考慮して平成2年に設置されました。

小学校もこの駅の近くにあり、待合室内には小学生が描いた「明星桜」の絵があります。前回の東山代駅と里駅の中間ぐらいの場所にこの古い大木はあります。

<待合室の明星桜の絵>



佐賀県内には古くて大きな樹があちこちにあります。温暖な気候風土と古くから農耕が盛んな保守的な集落が多かったということではないでしょうか。
隣の武雄市には有名な大楠が三本もあります。

里駅近くの青幡神社の境内には武雄のものにひけをとらないような「大楠」がデンと構えています。写真のように、青々と葉を茂らして樹勢のよさが分かります。この樹も天然記念物に指定されています。

<青幡神社の大楠>



2009年8月26日水曜日

東山代駅

<ひがしやましろ駅>


明治31年に伊万里まで鉄道が開通した後は、「伊佐鉄道」という呼び名で伊万里から松浦半島を通り佐世保までつなぐという地元の要望があったそうです。それが実現し始めたのは昭和5年になって、楠久まで延伸開業しましたときからです。

そのときこの東山代駅は開設しました。今では回りに民家は少なく町外れの駅という感じがします。

近くに桜の古木「明星桜(みょうじょうざくら)」という名木があります。シーズン中は狭い道幅の通り抜けができないところは車でひしめきます。

<満開の明星桜>

明星桜はエドヒガン系の桜の樹で、久安年間(1145~1151年)に京都の壬生寺から持ってきて植えたとの伝承があるそうです。名前の由来は夜間樹下で火を焚いて眺めると花びらが火にはえて明星の趣があるところから名づけられたと説明書きにありました。


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2009年8月24日月曜日

伊万里駅

<いまり駅>



松浦鉄道・伊万里駅はビルの一角にあります。駅員は1名ですが、無人駅ではありません。
JR伊万里駅は向かい側にあるビルの中にあります。
国鉄時代は線路は当然のことながらつながっていて、博多ー唐津ー伊万里ー平戸口ー佐世保ー長崎を通して走る急行もいました。
現在の線路は車止めでふさがれ、ビルが間に建っています。唐津、福岡方面に行くためには、隣のビルの乗り場まで行かなければなりません。
朝鮮半島では南北分断されていますが、線路はつながっているらしいですが、ここでは完全に分断されています。しかし、自由に行き来できるところは隣の国とは全く違うところです。

<車止め、左側は松浦から・右側は有田からの分>


松浦鉄道では有田から佐世保まで全線を通して運転されるものはありません。伊万里ー有田と伊万里ー佐世保の間で折返し運転です。切り替えのポイントがないのではと思ったりしたけど、車両基地は佐々にだけしかないので乗客を乗せない気動車は両区間を行き来しているはずです。


<行き先表示板> <下 乗り換え案内>










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2009年8月22日土曜日

川東駅

<かわひがし駅>





伊万里駅とは1.3キロしか離れていないのに途中の線路には雑草が生い茂っている。

川東駅は第三セクター松浦鉄道になり、最初に設置された駅の一つです。それも近くには伊万里高校と伊万里農林高校と高校が2つもあるので、高校生の通学の便を考えたら当然のことでしょう。駅の周りには自転車の駐輪場もあり、夏休みでも数台の自転車があったけど、通常日は多くの自転車があるものと思われます。

今年の夏の甲子園では、伊万里農林の野球部キャプテンが選手宣誓をしたのはついこの前でした。




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2009年8月20日木曜日

金武駅

<かなたけ駅>


明治31年に有田ー伊万里間の鉄道が開通したとき、途中の駅は蔵宿と夫婦石の2つだけでした。したがって、現在でも交換可能駅はこの2箇所だけです。

途中の駅間隔が広く、国鉄時代の昭和35年に金武駅と大木駅は新設されました。
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2009年8月18日火曜日

夫婦石駅

<めおといし駅>



<夫婦石の石>


明治31年に伊万里鉄道が開通したときにできた駅であるから単線運転の無人駅ではあるけど、交換可能駅(上り線と下り線のすれ違いができる駅)です。


夫婦石という地名であるのでそう呼ばれている石があるはずだと、伊万里駅の観光案内所で聞いてみたら、若い女性の係員だったが知らないとのことで、いぶかしがっていたら、夫婦石は有田町で伊万里市の管轄外であるとのことで知らないとのことでした。

駅付近を自転車で回りながら聞いて見ようにも、通行人に出会うことがなく、聞くこともできません。少し離れたところの道端で、スイカを売っているところで、油を売っている模様のお年寄りを見かけので、話しかけたらすぐ近くの、川の中の石がそれだと教えてくれました。(上の下の写真)

その呼び名から、石坂洋次郎の小説に出てくるような、男根と女陰かなとも想像していたけど、溶岩が冷えるときに割れたみたいなものでした。場所を教えてくれたお年寄りは、ぴったり寄り添っているからそう呼ぶことになったのだろうと言っていました。この石は写真のように2つだけではなく、いくつにも分かれているので、家族といったほうがいいような感じを受けました。ちなみに、近くで見かけた英語の標識ではFamilyとなっていたので納得です。

後になって、高校時代の同年の者とスカイプで話していたら、子供の頃はこの近くの伊万里出身で、この付近の川でよく泳いでいたとのことでした。川の水はきれいで淀みの広さも適当にあり、石は格好の飛び込み台となりそうです。しかし、夏休み中の午後だというのに一人も泳いでいるものもなく静かなところでした。この石のすぐ下流に橋が架かっていてこの橋までは有田町で、橋から下は伊万里市ということでした。


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2009年8月16日日曜日

山谷駅

<やまだに駅>



この駅は1991年(平成3年)に新設された、新しい駅です。

国道を伊万里から有田へ向かって自転車で走っていたら、道路からすぐ近くにあるのに、民家の陰になっているために見落としてしまいました。高校生の通学時間以外は利用者はあまりなさそうな駅に見えました。

2009年8月14日金曜日

大木駅

<おおぎ駅>

大木駅近辺は昔の宿場町のたたずまいをしています。
狭い旧街道に沿って古い町並みが続いていて、その中心になる公民館のところには、大木宿との看板があります。


唐津街道の宿場の一つでしょう。有田の焼き物を背中に背負って、伊万里まで運んでいた頃、その人たちが休憩に立ち寄ったことはあったでしょうが、宿泊まではしていなかったのではないでしょうか。有田ー伊万里間は十数キロの距離しかありません。当時の人の足なら1日30キロは稼いでいたでしょう。

<昔の宿場の中心地>


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2009年8月12日水曜日

西有田駅

<にしありた駅>

平成8年に新設された駅だから、新しく、しゃれた造りになっています。
合併して、有田町となったが、西有田町の頃町役場などの町の施設が近くに作られて、蔵宿に変わって町の中心となりました。
この町はアジアの国との交流を持つイベントを積極的に行ってきました。駅舎の国道側(下の写真)にはガラス越しにアジア各国の特徴ある民族小物が展示されています。

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2009年8月10日月曜日

蔵宿駅

<ぞうしゅく駅>






蔵宿駅は伊万里鉄道が開通した明治31年にできた駅です。

現在の駅舎は木造で白壁の落ち着いたたたずまいをしています。この建物の大部分を民間の会社が使用していて、無人駅です。

今は合併により、有田町にありますが、それまでは西有田町の中心地でした。





昭和40年に1度だけ蔵宿に行ったことがありました。それは、痔の手術のため入院している2~3年先輩教師を見舞いに行ったからです。

当時から蔵宿といったら肛門科・・・痔の手術と有名でした。写真の医院は、その後建て変わって、場所も移動していますが、当時の建物は駅のすぐ近くで、木造の普通の民家という感じでした。

畳の入院部屋には、数人が入りベッドはなく、夜だけ布団を敷いて寝るようになっていました。その頃でも珍しいものでした。後に赤ひげ診療所をテレビで見たとき思い出したくらいです。

部屋にはノートが紐でぶら下がっていて、退院して行った人たちの痔の苦しみや、手術後のことなど詳しく書いてあったのが思い出されます。

畳の部屋というのは、鍵もかからず出入りがしやすく、誰でも、あちこちの部屋を同病哀れむ、の気持ちででしょう、出歩いていました。

見舞いに行った若い先輩はその後すぐ結婚しました。馴れ初めを聞いたら、この病院で知り合った仲、とのことでした。

そして、これが本当の「尻合い結婚」だと言っていました。


最近は車でこの付近を通るとことが、多いけどその後の先輩夫婦の仲むつまじさと、この話を思い出します。

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2009年8月8日土曜日

黒川駅

くろごう駅





黒川と書いて「くろごう」とはなかなか読めません。地名、人名の読みは難しいですね。

写真機を構えていたら気動車がやってきたので撮りましたが、乗降者が全くありませんでした。

この駅は松浦鉄道で2番目に新しく、平成9年に新設されました。

近くには焼き物の窯元がたくさんあります。



<黒牟田(くろむた)地区窯元案内板>



<応法(おうぼう)地区窯元案内板>






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2009年8月6日木曜日

三代橋駅


<みだいばし駅>
有田駅から1.7キロにある最初の駅です。
第三セクターになって最初に作られた8駅の一つです。
平成8年に世界炎博覧会がこの有田(佐賀県)と長崎県の波佐見・三川内にまたがって行われました。このときのメイン会場が写真下の小高い丘の上にあるドームのある建物です。
博覧会の期間中は臨時の駅も作られましたが、今では記念館となっている会場には一番近い駅でしょう。
周りには焼き物の窯元があります。



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2009年8月4日火曜日

有田駅



<ありた駅>

1898年(明治31年)伊万里鉄道により有田ー伊万里間が陶磁器運搬のため開業しました。その後、国鉄となり、順次延伸され1944年(昭和19年)に肥前吉井駅で佐世保からの松浦線とつながりました。





有田といえば焼き物の町しかも高 級磁器の生産地ということでしょう。

私の小学校4~5年頃の国語の教科書に初代柿右衛門が苦労の末に赤い柿の色を作り出すのに成功した話がありました。それ以来私にとっては柿右衛門は特別な存在です。

駅の正面右側に白い大きな石が置いてあります。秀吉の朝鮮出兵のとき連れてこられた、陶工李参平が有田の泉山で発見した白磁の原料の陶石です。
有田の焼き物は江戸時代伊万里の港に運ばれVOC(オランダの東インド会社)などによってヨーロッパへもたらされたのは有名です。その頃のものを、「古伊万里」として今では大変な貴重品扱いになっています。当時は高価な大皿は人が背中に背負って伊万里までの道を運んだそうです。安物はまとめて荷車で運んだということですからかなりの差が感じられます。

<3番ホームの松浦鉄道>

陶磁器運搬のため建設された伊万里線ですから、現在もJR九州のコンテナターミナル駅として駅の裏側にはたくさんのコンテナが積まれています。しかし、この不景気でコンテナの数が以前より少なく感じたのは気のせいばかりではなさそうです。

駅の裏側から見た3番ホームにはコンテナの間に松浦鉄道の600系(松浦鉄道では最新鋭のもの)の気動車が伊万里から来て折返しを待っているところです。


1,2番ホームは佐世保線が使用していて写真のように電化されています

有田焼を鉄道で伊万里の港へ運ぶことは現在は行われていません。トラック輸送か、輸出港が他へ移ったかしたのでしょう。


有田の町は5月の連休のとき、陶器祭りは大変な賑わいで普通には歩けないほどの人ごみになりますが、普段の町は静かなものです。最後に柿右衛門窯の柿の木のたたずまいと14代柿右衛門の手による濁し手の皿の写真をどうぞ。







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