2009年12月30日水曜日

佐世保駅

<させぼ駅>

駅前はタクシーのたまり場です。あんまり動いてはいないようです。


佐世保は村からいきなり市になった唯一の市です。

明治22年に海軍鎮守府が佐世保港に開設されて瞬く間に発展していった街です。

現在の佐世保駅は高架になりました。したがって第三セクターの松浦鉄道も高架駅にあります。


松浦鉄道に乗車するためにはこの階段を登らなければなりません。もっとも右側の階段に近づけばエスカレータとして動き始めます。普段はほとんど動いていないので気付かない人もいるみたいです。







階段を上がれば1面2線の無人の乗り場があります。

JR線からの乗り継ぎは後方の狭い通路(列車が来たときだけ駅員が改札をする)から来ることができます。










通路の向こうには博多行の特急と長崎行きの列車が止まっていました。こちらは電車ですから立派に見えます。



佐世保駅(JR)1階の改札口から出てくる人と迎えに来ている人です。
写真左側が駅正面入り口(東口と表示してある)、右側が裏口ですがこちらは「港口」といいます。桟橋や船も見えるのでネーミングとしてぴったりします。



佐世保駅港口


最後まで読んでいただきありがとうございました。佐世保軽便鉄道のことから書き始めてその跡を継いだ松浦鉄道の駅めぐりも佐世保駅でおしまいになりました。
来年からは私が住んでいるごく狭い範囲の中にもいろんな歴史があります。まだ誰も書きとめたものがないので調べながら書き記していこうと思っています。
タイトルは「口石金比羅さん物語」とします。週に1回の更新を目指します。よろしかったらお立ち寄りください。

2009年12月24日木曜日

佐世保中央駅

<させぼちゅうおう駅>



この駅は近くのデパートと大きな病院と通路でつながっています。2枚目の写真はデパート側から見たものです。右側に迫っている山は島地山で最近まで消防の火の見やぐらもありました。昔はこの山が境目で、ここより海側は海軍用地として接収されました。現在では山も削られてしまい、わずかに緑が見える程度です。









この駅は松浦鉄道としては珍しく無人駅ではありません。
駅長さん(他に駅員はいない)は普段は1階の事務室にいて、列車が来たときだけ2階のホームでお迎えをします。新型インフルエンザの影響でしょうマスク姿の駅長さんでした。

何といってもこの駅には日本1があります。あまり有名ではありませんが、公認記録です。
前回の中佐世保駅との距離が200メートルしかなく、全国の鉄道の駅間で最短記録を持っています。
写真左側の黄色の標識には中佐世保と書いてあります。これは列車の運転手に次の駅を知らせてブレーキをかけさせるためのものです。
前回の中佐世保駅のホームのはずれにも佐世保中央と書いた黄色の標識があります。
なんとかこの近い2つの駅を1枚の写真の中に収めようとしたけど、建物とカーブに阻まれてついにできませんでした。



大都市の地下鉄のように初めから計画してデパートの中に駅があるのではなく後から通路で結ばれたため、風のある日の雨ならば濡れることを覚悟しなければなりません。しかし利用客の多くはデパートと病院からの人たちです。
佐世保市最大の繁華街4ケ町からこの駅に行けます。写真の托鉢のお坊さんが立っている横の道から入っていきます。
その突き当たりを右へ曲がれば






この駅の1階入り口にたどり着きます。ホームは2階です。




2009年12月18日金曜日

中佐世保駅

<なかさせぼ駅>

蒸気機関車が走っていたころ、佐世保市の 中心街には鉄道の駅はありませんでした。
中心街を横切ってガードの上を汽車は走っていました。
昭和36年に、狭い路地を通って階段を上った所に駅が無理やり作られました。当時は中心街に近いこともあって利用者はかなりありました。
その後、次の佐世保中央駅が国道の反対側にできて様子は一変しました。
今の姿は、中心街のはずれのさびれた吹きだまりの駅といったところです。


2009年12月12日土曜日

北佐世保駅

<きたさせぼ駅>



昭和10年に佐世保線が延伸されてここまで延びてきました。
当時ここから北松方面に行くためには軽便鉄道が400メートルほど離れた現在の俵町にある上佐世保駅まで歩かなければなりませんでした。


高台の不便なところに駅は作られましたが、現在も離合ができます。







したがって長さはあまりありませんが、高架下の商店みたいなところがあります。
最初にできた時は佐世保線の終点の駅となり、次に国鉄松浦線の佐世保北部の中心の駅となりましたが、現在は佐世保郊外のひなびた駅となりました。





















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2009年12月8日火曜日

山の田駅

<やまのた駅>


かわいい時計塔のある駅舎ですが、山の田駅も隣の泉福寺駅と同じような運命をたどってきました。軽便鉄道の駅として始まり、国鉄となり列車が大きくなったらホームの拡張もできず、貨物の取り扱いをするスペースもなく駅は廃止されてしまいました。
ところが民営化され、さらに第三セクターに転換されて、気動車がバスみたいな走り方をすると駅が復活しました。
この付近は岩盤の傾斜地で鉄道を通すのにかなり苦労をしたみたいです。
佐世保は埋め立て地以外には平坦地はなく狭い谷間に道路と鉄道を引いたので かなり無理をしています。









(4枚目の写真)は近くの山の田水源地の桜並木です。ここは春になると花見客で賑っていましたが、最近はそれほどではありません。

昭和6年に臼の浦まで軽便鉄道が開通したとき、小佐々の人が大層喜んで作った鉄道唱歌の替え歌がありますので、1番だけ紹介します。

   汽笛一声 上佐世保
   早わが汽車は 離れたり
   桜の名所 山の田を
   過ぎれば 次は左石


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2009年12月4日金曜日

泉福寺駅

<せんぷくじ駅>
大正 10年に軽便鉄道の駅として作られたときは、現在地よりも数百メートル左石寄りのところでした。
国鉄になり改軌されたときに泉福寺駅はなくなりました。第三セクターになり気動車が1両か2両走るようになって、昔の名前で登場しました。



(3、4枚目写真)はこの駅の近くにある泉福寺洞窟とその説明書きです。
発見は40年ほど前のことですが、2万年前ごろからの人類の生活痕跡があるとのことです。特に豆粒文(とうりゅうもん)土器は世界最古のものと言われています。
4枚目を拡大してみれば説明書きも読めます。

泉福寺という地名はずっと使われていたのに、肝心のその名のお寺も寺跡も見つからずに郷土史家の人たちを悩ませ続けているところです。


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2009年12月1日火曜日

左石駅

<ひだりいし駅>


大正9年に佐世保軽便鉄道の「大野駅」として新設されてから佐世保市北部の中心地として賑ってきました。(駅名は左石と改名)
炭鉱が操業していたころは柚木線の分岐駅として引き込み線も数多くあり、広い構内を誇っていました。
現在は貨物の取り扱いはなくなりましたが、県立の工業高校と戦後新設されて今では進学校となった普通高校の2校が近くにあり、朝夕の通学時間帯にはかなり込み合っています。













(5枚目の写真)は左石の地名のもととなった石と言われています。

この道路は江戸時代参勤交代にも使われた平戸街道とか平戸往還ともいわれるものですが、今は抜け道として車は通っています。

平戸を出発した行列が左手にこの石を見て通ったということです。道路が拡幅されて石はずいぶん小さくなり雑草まで生えていますが当時はかなり大きかったらしいです。

ところが今年の7月の豪雨により右側の岩山が崩れてこの道路が不通になりました。もともと抜け道としてしか機能していなかったのですから道路の不通はどうということはなかったのですが、ここに佐世保北部方面の上水道本管が通っていたものですから大変でした。24時間体制で復旧工事が行われましたが、丸4日間数万世帯が断水で不便な思いをしました。

佐世保は十数年前渇水で断水がありましたが、雨が降り過ぎても断水になるという水には恵まれないところのようです。

写真をよく見てください。車の後ろの石は今回のがけ崩れで落ちてきた石です。いわゆる左石の石より数倍は大きいものです。となれば、今度は「右石」と地名を変えなければならないのではないでしょうか。


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