2009年11月27日金曜日

野中駅

<のなか駅>

この駅は 平成2年に新設されました。近くに住宅が増えて利用者を見込んでのことでしょう。
相浦川に沿って線路と元国道204号線が通っているところに、無理やり作ったという感じで、道路からは線路をくぐって階段を上ってホームに行きます。
ホームというか通路というかとにかく狭いところですから学生たちも騒いだら危なそうです。






(3枚目の写真)
ホームのはずれの石垣に軽便鉄道の定礎があると聞いたので見に行きました。葛に覆われていたけど取り除いたら、御影石に右から左へと「明治三十八年三月竣工」とだけ書いてあります。
この付近を軽便鉄道が通ったのは大正9年ですからそれとは違います。
よく見たら石組のアーチ橋です。向い側から相浦川に向かって少しですが流れがあります。
明治から大正にかけてこの付近ではあちこちに生活道路としてアーチの石橋が架けられています。
その後、この橋の上を軽便鉄道が通りさらに国鉄の蒸気機関車が通ったけどびくともしていないのには感心させられます。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年11月23日月曜日

皆瀬駅

<かいぜ駅>

この駅もさびれ方がひどい駅です。広い敷地内は駐車場として使われていますが街中の駐車場のようには車は入っていません。(2,3枚目の写真)
(4枚目の写真)線路の反対側の引き込み線跡の線路を外したところは荒れ地になっていて、近所のお年寄りの菜園としてところどころ使われているという感じです。

2009年11月19日木曜日

中里駅

<なかざと駅>

江戸時代、平戸藩は郡代と呼ぶ地方役所を中里に置いていました。
相浦から佐世保までの範囲をカバーしていたのですからずいぶん広い地域になります。
中里には本陣のあとや宿場としての家並みも少しは感じられますが、この駅付近は田んぼと畑ばかりが目立ちます。
炭鉱があったころは引き込み線やホッパーもありましたが、その名残もなくなりました。




にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年11月16日月曜日

本山駅

<もとやま駅>
この駅は平成6年に新設されました。佐世保から北松方面に行くためには、汽車は愛宕山をぐるっと回って相浦経由で佐々へ行くことになります。車はここから峠を越えて(嘘越えという)行くのでかなり近道をします。
軽便鉄道が相浦までしか通じていなかったときには、佐世保の女学校に通学するために佐々からここまで山越えして歩いて来ていたという話をお聞きしました。
そのおばあさんも今年になって100歳を過ぎてお亡くなりになられました。当時この付近にあった軽便鉄道の駅は中里駅でした。









にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年11月14日土曜日

上相浦駅

<かみあいのうら駅>

この駅は軽便鉄道時代の駅名は使っているけど、場所はずいぶん移動しています。
国鉄移管後の昭和18年に現在地に作られています。田んぼの真ん中に上相浦駅は広い敷地を使い建てられました。当時近くに海軍基地があったからでしょう。
一時はこの駅に保線区もあったそうです。
  
(2枚目写真)の麓を相浦川が流れています。この川には今では珍しく飛び石があり現在もつかわれています。
(3枚目写真)のオジさんはいつも使っているそうです。
流されて新しく入れ替えたのもあるようですが、数百年は使用されているでしょうとこの人は言っていました。
石の上面はすり減って凸凹しているけど風格があります。流れに逆らわないように細長い断面になっていて
(4枚目写真)を見てもらえばわかるように、飛び石の下部には穴をあけそこに1本の丸太を通してあります。増水したときに流されないような工夫で江戸時代から定期的に補修されてきたそうです。
現在、相浦中心部はここより300メートルばかり下流になるのでそこには普通の橋が架かっています。
飛び石より500メートルばかり上流付近に高速道路のインターチェンジの工事が進められています。そのあたりの地名は「門前」と言います。数年前、工事に伴い掘り起こしたところから弥生時代の遺跡が見つかりました。
中でも木製の棺桶がほぼ完全な状態で見つかり話題になりました。
現在相浦の中心地にある「飯盛神社」と「洪徳寺」は昔は愛宕山の麓のこの辺りにあったので、門前という地名になったそうです。江戸時代に2度移転して現在地におさまったそうです。最初に移動したところの飛び石が今残っているもので、上流にもやはり飛び石が橋の代わりをしていたということです。

インターチェンジの名称は「門前」とはならずに中里となりそうです。

2009年11月12日木曜日

大学駅

<だいがく駅>
この駅は平成3年に「大学前駅」として新設されました。その3年後に「前」をとって「大学駅」と名称を変えました。
ここの大学名も変わりました。開学当初は長崎県立の「国際経済大学」と言っていました。地元ではこの学校のことをいうとき略して国経大発音は「コッケイダイ」と言っていました。知らない人が聞いたとき、滑稽に感じていたようです。
その後大学名は「長崎県立大学」佐世保校となりました。

駅名の変更には第三セクターとなった鉄道会社の商魂が見えます。変更後「大学ー今福」間の切符を受験生のお守りとして発売し新聞やテレビにも取り上げられました。

(2枚目写真)


昼間でも利用者は大学生が多くて、大学生はいつもうろうろしているみたいです。




(3枚目写真)
後から作った駅ということで線路の土手に無理やり作っていて階段を登らなければなりません。階段下は駐輪場です。
松浦鉄道の駅名は全部地名によるものでした。この駅ができて地名以外の駅となりましたが、一昨年上佐々駅が清峰高校前駅となり、この2駅だけが地名でない駅となります。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年11月10日火曜日

相浦駅

<あいのうら駅>


大正9年に佐世保軽便鉄道が最初に相浦ー大野(現在の左石)ー柚木間に鉄道を引いたときからこの駅は始まりました。

港と谷間の集落地の間を縫って通った線路ですから無理して駅を造った様子がうかがえます。

当時学生だった人の話では、朝駅に行ったら乗り場が変わっていて面喰ったことが何度かあったそうです。

今の相浦駅に港から行くと道路から階段を上った所に(写真1枚目)の地下通路みたいなところに「相浦駅」と書いてあります。その通路の上が線路ですからそこを通ってまた階段を上ったらホームにたどり着きます。(2枚目写真)

いわゆる島式ホームで上下2線しか今は使われていませんが、引き込み線も多数あった様子がうかがえますし、(3枚目写真)の車輪止めもそのまま残っています。


(草むらにそのまま放置されている車止め)

引き込み線跡は長いこと放置されていたけど、最近住宅団地として再開発されました。(4枚目写真)

(5枚目写真)は相浦港ですが、漁港としてわずかばかりの漁船が停泊していました。

向い側の煙突は九州電力の火力発電所(燃料は重油)ですがあまり運転されることはなく原子力発電所に任せているような感じがします。



にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年11月8日日曜日

棚方駅

<たながた駅>
この駅は松浦鉄道に転換後すぐに新設されました。
佐世保市郊外のこの辺りには住宅地が開発され、次第に住人が増えてきていました。朝夕の通勤通学時間帯は利用者は多いようです。
(2枚目写真)駅前の住宅の奥の山は通称「相浦富士」と呼ばれる「愛宕(あたご)山」です。これからしばらくはこの山をぐるっと回りこんで佐世保へと行くのでどの駅からもよく見える山です。


にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村

2009年11月6日金曜日

真申駅

<まさる駅>


昭和6年に初代真申駅は現在地より佐々寄りの佐々町内に作られました。この付近は佐世保市と佐々町境が複雑に入り組んでいてよそ者にはわかりません。

国鉄となり改軌された線路を引くのにこの海岸よりの土地は潟地でかなり苦労があったようです。そのため松浦線の中で最後に線路の敷設が終わったところといわれて、この駅前に記念碑が建てられています。(写真1,3,4枚目)

(2枚目の写真)この鉄道では数少ない交換可能駅です。しかし乗降客はこのとき1人だけでした。そしてカメラを向けたらホームの待合室の中に隠れてしまいました。


この駅のホームは島式2線で、下り(右側)の車両が出てしまうまで手前の階段には遮断機が下りていて右側の道路へ行くことはできません。ですから隠れたのではなく気動車が出るまで腰かけて待っていたということでした。




(3,4枚目写真)は松浦線全線開通を記念して建てられたモニュメントと説明書きです。
この駅の海岸側には火力発電所がありました。できた当時は東洋1の出力を誇っていました。高校生の頃若い女性に髪を高く巻き上げるのが流行したとき、それを見て「真申の煙突」とよくいっていました。
この発電所も寿命がきて取り壊されるときの解体工事で死者が出るという痛ましい事故もありました。上に何人も乗ったままに鋼材をガス切断して墜落したと報道されていました。
最近この付近には高速道路とは別に、立派なバイパス道路が工事中です。この田舎には珍しい立体交差になるそうです。民主党に見つかったら工事を差し止められるのではないでしょうか。

にほんブログ村 鉄道ブログ 廃線・未成線へ
にほんブログ村


2009年11月4日水曜日

小浦駅

<こうら駅>

昭和6年に 軽便鉄道の小浦駅として新設されたのは今の駅より5~600メートルほど佐世保寄りのところでした

国鉄となり改軌されて現在地に2代目小浦駅が作られたのは終戦直前の昭和20年3月です。戦時中に鉄道隊が来て突貫工事をして線路を敷設したのを近所のお年寄りはよく覚えておられます。

この辺りは佐々川の河口にあたり江戸時代から(もっと古いかもしれない)干拓をしてきたようです。江戸時代には塩田もあり松浦藩が取り仕切っていたそうです。(3枚目の写真)はホームのはずれにある塩田跡記念碑。

そんなところを昭和になってからも農業用地として干拓を続け米余りで農地をもてあまし、国は県へ、県は町へと委譲して佐々町は工業用地・商業地として最近になって使い始めました。地価が安かったのでしょう瞬く間に埋まっていきました。
最後に残った3000坪あまりの土地に町の誘致に乗って健康センター系の温泉センターが温泉施設を作ろうとして、ボーリングを昨年始めました。1300メートルほど掘ったけど湯の量が少ないということで温泉はオジャンになりました。
地元ではずいぶん期待していただけに残念でした。

2009年11月2日月曜日

続佐々駅

<佐々車両基地>



佐々駅には国鉄時代機関区がありました。したがって敷地が広かったのでそこへ松浦鉄道となってからは気動車の車両基地が作られました。

民間移行後20年を過ぎたので、車両も順次更新されて新型のものも入ってきています。
国鉄のときは博多から松浦線を経由して長崎まで急行「平戸」が1日1往復運行されていた時もありました。
松浦鉄道になった後もハウステンボスまでJR線に乗り入れていましたが、車両の老朽化で中止になっていましたが、最近新しい車両の導入で復活しています。


(4枚目写真は軌道自転車)ですが、平戸口駅博物館にあったものよりは進歩していて、ペダルの他にガソリンエンジンも付いています。





(5枚目写真の線路敷設機)もここに置いてあるのは現役として使われているようです。